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【保守的になったら、人生負けだなと思う。】

【保守的=無】

世の中はフィクションで成り立っている。
人々は、その仕組みの中で論理的に行動をして生きている。

論理的とは、自分のバックグラウンド(文脈)によって人生を選択をしているという意味だ。
つまり、その文脈を抜けない限り、当たり前な結果しか生まれない。それ以上でもなく、それ以下にもならない。

【文脈の破壊=学習】

新しい何かを学習するとは、過去の自分を破壊するということである。
昆虫が脱皮をして、殻を破るということに近い。

つまり、過去の自分→別の自分に変化する。
変化がなければ、学習したとはいえない。

【生物学的不平等】

全ての人間は平等である。この理念を信じている人はマジョリティーであろう。
しかし、これもフィクションである。
人類が社会を形成するために宗教や法治を持ち入り、人間は平等であるという概念を作った。この方が社会を形成するには合理的だからである。
生物学的に見れば、遺伝子レベルで全ての人間は異なる。誰1人として、同じ遺伝子を持った人はこの世にいない。
だから、全ての人間は平等である。ということは論理的に説明することは出来ないのである。

【保守的でなければ変化が出来る。】

人は1人、1人、別の生き物なのだ。
それゆえ、バックグラウンドなんて過去で終わりである。それに未来永劫はない。
だから、保守的になるということは、社会的に価値もなければ、その個人自身に対しても意味はない。ただただ川で流されている、落ち葉のように流されて、やがて川下にとどまる。保守的になれば、そんなふうに社会の流れに乗ることは出来るであろう。
そこに人生の意味はあるのだろうか。