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家事整理の実際01「ガラクタのない家」

 スーパー主婦として活躍する井田典子さんは、著書『「ガラクタのない家」幸せをつくる整理術』の中で、一生の哲学書として『羽仁もと子著作集』を紹介しています。著書では、特に影響を受けた言葉が紹介されている一番目が、書名にもなっている「ガラクタのない家」です。この文章が収録されている『羽仁もと子著作集第9巻 家事家計篇』は家庭科の教科書にしていただきたいくらい、とも書かれています。

ガラクタのない家

 私が家を持ったばかりのころでした。さきにいった佐治さんのお家は、実にいつでも気持ちよく片付いているのに感心して、あなたの家事の理想を、私の持っている多くの読者にも伝えるように話していただきたいといったときに、次のように答えてくださいました。

 私はわれわれの家庭生活のもっとも手近な目標として、まずわが住宅の外側を手落ちなくととのえたいと思います。家屋の軒にはくもの巣が張ってあり、屋根の瓦かわらはところどころ損じゆがみ、庭の立木は手入れせぬままによごれてさびしげに立っており、台所口には流しの水があふれ出ているというような有様は、一家の品位のためにも家人の気風にもおよぼす感化の上よりみても、衛生上からも経済上からも、ともに感服の出来にくいことであるから、まずこのことに注意して、家屋の外側、屋敷のまわりの常に必ず清潔に、下水その他各種の設備と修繕手入れのおこたりなく親切に行き届いているということを、まず第一の心がけとしたいと思います。
 第二には、家屋の内部すなわち家内各室の清潔整頓せいとんということであります。かりにいつ何どき表からでも縁側からでもお客にあがってこられても、また揚げ板の下押し入れの中をあけてみられても恥ずかしくないというだけにしておきたいのです。勝手には鍋やすり鉢のおいてあるのは当然のことでありますが、その鍋やすり鉢はいつでも必ずあるべきところに見よくさっぱりとすえられてあってほしい。寝室にはこたつもありましょう。衣桁えこうに着物もかかっていましょう、押し入れの中にはつぎつぎのねまきも入れてありましょう。しかしながら、それらはすべてととのった形において、あるべきようにありさえすれば、誰に見られても恥ずかしくないのであります。客間は客間らしく寝室は寝室らしく台所は台所らしき形においてととのっているということを希望するのです。注意ぶかく意志強くありさえすれば、大概の家庭には出来ることでありましょう。
 第三は、以上のごとくに一家の生活をささえるところの費用は、他人に話すべき必要のあったときには、またいつ何どきでも、これこれの収入によってこういう具合に支払いをし、これこれの予備金をあましているというふうに、あきらかに説明することのできる筋道の収入と方法とによってささえられているようにありたいということです。家庭生活が何ほどととのっていても、その生活をささえている金が、十分に清らかなものであり、その支払いの筋道が少しもみだれず明瞭になっているのでなければ、確かな生活とはいえないのであります。素性すじょう正しき金を質素に有用に支払って、前のごとき生活をいとなんでいるならば、裏表とも清浄な家と称することができます。

 佐治さんのお家をみるたびに、その清らかに整頓されていることのほかに、いつでも座敷がひろびろとして、道具の少ない家だということを感じました。それはどういうわけですかと、聞いてみると、

 新世帯の当時は、どこの家にもあまり道具がないもので、すこし年数がたつと、あれのこれのとだんだんふえてくるようですが、私の家庭はかなり古くなったけれども、いわゆるガラクタはありません。ほんとうに始終重宝して用いているものばかりです。
 私の経験によれば、普通の新世帯で家族が夫婦なら、ふたりの日々生活していくために必要欠くべからざる道具と、客があったら番茶でもいれて出すだけのものだけととのえておく。するとおいおい時日の経つうちに不自由なものができてくる。不自由をするたびに、あれもなくてはこれもなくてはと思うものだが、そういう気持ちで買いたしていくと、例のガラクタばかりふえるから、一度くらい不自由な目をしたものはまずこらえて買わずにおく。同じものがないために、また一度不自由をする。今度もこらえる。さらにもう一度そのものがないために不自由を感じたら、今度ははじめてととのえてよいと思います。あまり長くない時日のあいだに、三度までもそのもののないために不自由を感ずるほどのものであったら、必ずその先もたびたび入用なものにちがいないのです。またあるほうが都合はよいが、なくてもたいした差しつかえはないというようなものは、買わないほうがよろしい。節倹せっけんということはこういうところにあると思います。私のところには夏のざぶとんが五枚しか用意してありません。それは一夏に一、二度くらい、この部屋に同時に五人以上のお客のあることもありますが、一年に一度や二度の入用のために、さらに数枚のざぶとんをこしらえるほどのこともないと思うからです。ガラクタに煩わされまいと思うなら、そのものの必要な場合に出会ってみないうちに、これも必ず入用だろうなどと見越して買うことは禁物です。必要な場合に出会ってさえも前にいったとおり同様な場合に三度も出会ってはじめて買うべきです。

 あるときまた盆栽をのせて、座敷の中においてあった、上等の黒檀の台をさして、「この台は夜はランプ台になります。道具というものは、たまにしか買うものでないから、買うときは見飽かないほどのものを買って、始終重宝することです。盆栽は夜はたいがい外にだすのだから、あいた台はさっそく燈火あかりの台にするわけです」といわれました。
 佐々いち子夫人はまたあるとき、「相当の暮らしをしていながら、なんとなくもう一と息家事がうまくいかないで困るという方があれば、それはたいがい家の中にガラクタが多いのと、主人から子供までめいめいの身のまわりのことに、人を使う習慣がついているからだと思いますよ。簡易生活を目標にして、思いきって、よけいな道具を整理してしまえば、見違えるように家の中がしまってきて、住みよく働きよいものになります。そしてその不用品を売って、ちょっとした台所の改良でもしたら、そうして何よりもまずめいめいの身のまわりに人を使わないことにすれば、たちまち月々の生活費がよほどちがってきます」といわれたことがありました。誰の見るところも同じものです。家中の人がその気になって、まず、家中のガラクタ整理をすることがはじめです。
 不注意な買いもののほかに、いま一つガラクタのふえるわけは、人が持ってきてくれることです。贈りものの見つくろいにはみな心をつかいますから、人からもらうものはいつもそれぞれによいものです。またことごとくあって重宝なものばかりです。しかしなくても生活ができていたのですから、やはりほんとうは手数のかかる場所のとれるガラクタになってしまいます。この意味からでも贈答はできるだけしないほうがよいと思います。

羽仁もと子著作集 第9巻『家事家計篇』第6章「家事整理の実際 一 ガラクタのない家」

 井田さんも、著書の中で「はじめからガラクタという名前のモノがありません。モノが勝手に入ってきたのではなく、私たちが何らかの理由で家に入れたはずなのに、こちらの都合で役に立たなくなったり上手に生かせなくなった途端にガラクタと呼ぶのは身勝手です」と書かれています。羽仁もと子の「三度までもそのもののないために不自由を感ずるほどのものであったら、必ずその先もたびたび入用なものにちがいないのです」は、物のあふれる現代にも心に留めたい言葉ですね。


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