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【911テロ-反テロ戦争開始から20年】9.11テロを擁護する辺見庸 (週刊かけはし 2002年9月16日号)



辺見庸氏と「9・11」
ビンラディンに第3世界民衆の苦悩と怨念を代表させることはできない

 作家の辺見庸は、メディアや論壇の主流がブッシュ流の「テロリズムとの闘い」に同調する中で、最も精力的にアメリカの「報復戦争」を批判し、「北」の支配権力に身を委ねた言説を批判してきた知識人だった。

 彼は、米軍のアフガン爆撃開始直後、朝日新聞(01年10月9日)の「私の視点」欄で、次のように述べた。

 「目を凝らせば凝らすほど、硝煙弾雨の奥に見えてくるのは、絶望的なまでに非対称的な、人間世界の構図である。それは、イスラム過激派の『狂気』対残りの世界の『正気』といった単純なものではありえない。オサマ・ビンラディン氏の背後にあるのは、数千の武装集団だけではなく、おそらく億を超えるであろう貧者たちの、米国に対するすさまじい怨念である。一方でブッシュ大統領が背負っているのは、同時多発テロへの復讐心ばかりでなく、富者たちの途方もない傲慢である。/とすれば、現在の相克とは、ハンチントンの『文明の衝突』という一面に加え、富者対貧者の戦いという色合いもあるといえるのではないか。敷衍するなら、20世紀がこしらえてしまった南北問題が、米国主導のグローバル化によってさらに拡大し、ついにいま、戦闘化しつつあるということだ。富対貧困、飽食対飢餓、奢り対絶望――という、古くて新しい戦いが、世界的規模ではじまりつつあるのかもしれない」(坂本龍一監修『非戦』幻冬舎刊に収録)。

 小泉政権が「9.11」直後にアメリカの主張する「テロリズムとの闘い」の陣営に馳せ参じて、米軍のアフガン戦争を軍事的に支援して海上自衛隊をインド洋に派遣し、日本の主流派メディアが、アメリカのアフガニスタンへの「報復戦争」を支持する態度を見せた時、流れに抗して事態の根底にあるものをえぐりだそうとする辺見の発言は貴重なものであった。

 しかしこの主張は、「9.11」テロ対ブッシュの「報復戦争」を、「北対南」「富者対貧者」「飽食対飢餓」の二項対立構図に単純化するという点で、ブッシュが叫ぶ「正義対悪」の二項対立の裏返しという弱さをも持っていた。

 私は、決して「どっちもどっち」的相対主義を主張しているわけではない。ブッシュの「対テロ戦争」と闘う上で、「二項対立」の一方の側に安易に自らを置いて、「9.11」無差別テロの反人民性や「イスラム主義者」やタリバンの強権支配の反動的本質を不問に付す誤りを犯してはならない、ということなのだ。

 それは冷戦構造の終了と軌を一にした1991年の湾岸戦争において、多国籍軍の戦争に反対する闘いは、サダム・フセイン独裁体制の防衛に加担するものとなってはならない、という点ですでに問われていたことである。そのことは、当時十分に意識化しえていなかったとはいえ、第二次大戦後の植民地解放闘争において積極的な意味を持っていた「帝国主義対反帝国主義」の論理が直接的な妥当性を持ちえない新しい世界構造の中で、私たちに突きつけられた問題であった。

 ここに取り上げた辺見の発言では、オサマ・ビンラディンに第三世界の「億を超える貧者」の「米国に対するすさまじい怨念」を重ね合わせる傾向がすでに明らかである。私は昨年「9.11」の後に、このテロ攻撃を「憎むべき虐殺者=収奪者にたいするやむにやまれぬ肉弾反撃」とか「被抑圧民族の決死の反米ゲリラ戦争」として無責任に賛美する革マル、中核両派に対して「ビンラディンならびに彼に拠点を提供しているタリバン政権、そして彼らを支持する『イスラム主義』者は、まさに反動的・反人民的な存在なのであって、決して『虐げられた民衆』や被抑圧民族の大義を代表するものではない」(本紙01年10月8日号、平井「無差別テロ=大量殺人擁護で一致する革マル派と中核派」)と批判した。

 ところが最近の辺見の主張には、私たちが批判する「二項対立」的な思い入れがよりはっきりと表現されているように思える。

 岩波書店の『世界』02年9月号に掲載された高橋哲哉(東大教員・哲学)との対談「再論・私たちはどのような時代に生きているのか」の中で、辺見は語っている。

 「一方向的意味の統制下に置かれている世界」において、「意味の収奪や強要をはねつけていく」ためには「穏当なもの」などなく、「巨大な悪の輪郭を描きだす」ためには「劇薬」としての「試薬」が必要なのであり、「ある意味では9.11も試薬だった……きわめて劇薬ですが、あれをもってしか暴きえない世界がたしかにあった」と。そして、「共産党も社民党も多くの市民運動もそうですが、どうして『テロにも反対、有事法制にも反対』なのか。『テロに反対』と言ったとたんに、ブッシュ的な定義づけに完全に吸収されてしまうということに気づいていないのではないか」と語る。

 彼はまた「誤解を恐れずに言うと、9.11以降に踊り出てきたたくさんの言説のつまらなさと比較すれば、ビン・ラディンの表現力は傑出している。ブッシュの悪とビン・ラディンの悪は、その深みと輝きにおいて同一ではない」とまで言い放っている。

 "9.11をもってしか暴きえない世界"や"ビン・ラディンの傑出した表現力"と辺見が語るとき、彼が無視し、切り捨てているのは、新自由主義的グローバリゼーションが増幅した不正義そのものの社会やそれと結びついた第三世界の軍事独裁体制に対して、民主主義と公正を求めて困難に満ちた闘いを営々と積み重ねてきた民衆の姿である。そこには、当然のことながら、「イスラム主義」の反動的統制を突破して闘おうとする女性たちが存在する。

 パキスタンの平和・人権活動家は、アメリカの戦争に反対するとともに、アメリカとパキスタンの軍事独裁体制が育成し、支援してきた「イスラム主義者」たちの宗教的ファナティシズムに抗して闘いを継続してきた。それが極度に孤立した苦闘を余儀なくされていることは事実だ。しかしブッシュの「対テロ・グローバル戦争」の論理を打破する回路は、その中にこそ存在するのであり、決して自らを「9.11」テロと「ビン・ラディン」の側に置くことから見いだされるものではない。

 なぜ、「『テロに反対』と言ったとたんに、ブッシュ的な定義づけに完全に吸収されてしまう」ことになるのか。そこには何の論証もない。辺見の「二項対立」論は、ついにテロを肯定することによってしか、ブッシュが代表する今日の世界の暴力と不正義に対抗することができない、という絶望の理論に帰着する。それは、アメリカでもイスラム世界でも、ブッシュの「国家テロリズム」に反対して大衆的な反戦運動、反グローバリズムの闘いを組織しようとしている人びとの営為に水をさすものにほかならない。

 ブッシュが発動しようとする対イラク全面戦争を阻止する闘いは、私たちにとっての新たな試金石となるだろう。辺見は「ブッシュ対ビンラディン」の図式を「ブッシュ対サダム・フセイン」の図式に移行させるのだろうか? そうであってはならない。

 対イラク戦争をやめろ!という反戦運動とともに、イラクへの経済制裁の即時中止、アメリカの戦争犯罪=劣化ウラン弾の犠牲者に対するアメリカ政府による全面的な補償を求める国際的・大衆的なキャンペーンを! イスラエル・シャロン政権のパレスチナ民衆虐殺を阻止する運動の拡大を! こうした運動のグローバルな展開と結合こそが独裁者サダム・フセインが「アラブの大義」「イスラムの大義」を僣称する基盤を掘り崩していく。「よりましな悪」の選択を超えるオルタナティブへの挑戦が、ここでも求められているのだ。

(平井純一) 

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