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【911テロ-反テロ戦争開始から20年】なぜ日本新左翼のなかに無差別テロを容認する「ざまあみろ論」が多いのか (週刊かけはし 2001年10月29日号)

帝国主義の戦争政策と真に対決する闘いのために

 米英両軍によるアフガニスタンへの侵略戦争=国家テロリズムの全面的発動が始まった。侵略戦争をやめさせ、日本の参戦を阻止する共同の戦線を作り出す闘いは、民主主義と人権を守る闘いでもある。そのような闘いを力強く発展させるために、非武装の労働者市民を殺害する無差別テロへの賛美論や容認論を厳しく批判しなければならない。


新左翼の無差別テロ容認論

 九月十一日にアメリカで発生した大規模な無差別テロ事件は、全世界に巨大な衝撃を与えた。たとえそれがどのような「崇高」な宗教的原理を掲げていたとしても、あるいは「反米」や「反帝」的な政治目的が掲げられていたとしても、非武装の労働者市民を無差別に大量殺害する行為が許されないということは、社会主義革命による労働者人民の解放をめざす左翼勢力にとって当然のことである。マルクス主義は、階級を組織する方法としてテロを容認しない。ましてや社会主義革命の主体である労働者を大量殺害するような無差別テロを、絶対に容認することはできない。

 これは、全世界で社会主義革命運動の再生をめざして闘う左翼諸勢力にとって当たり前の原則であり、資本のグローバリズムと新自由主義に対決して闘う戦闘的労働組合運動にとって当たり前の原則である。世界の左翼諸勢力がこの事件を受けて発表した声明やアピールにも、われわれの知るかぎりこの無差別テロを容認するものはないし、ましてや賛美するものはない。

 しかし日本は特異な例外である。九月二十四日に東京・代々木公園で開かれた「テロにも報復戦争にも反対!市民緊急行動」で発言に立ったダグラス・ラミスさんは、日本の新左翼諸グループのなかに広がっている無差別テロ容認論や賛美論を、「やったー論」「ざまあみろ論」「隠れざまあみろ論」として厳しく批判した(本紙10月1日号)。

 本紙10月8日号で指摘したように、双方で百人もの死者を出す流血の内ゲバを繰り返す非和解的対立を続けてきたはずの革マル派と中核派は、なんとこの無差別テロ=無差別大量殺人に関してはほぼ全面的な賛美で一致してしまった。「アメリカ帝国主義の世界『一超支配』の暴虐を打ち砕くための挑戦」「憎むべき虐殺者=収奪者に対するやむにやまれぬ肉弾反撃」(革マル派)。「世界史上も前例のない……被抑圧人民によるやむにやまれぬゲリラ戦争」(中核派)。これが「やったー論」を代表する両派の主張である。

 この他の新左翼諸党派のなかにも、革マル派や中核派ほど露骨な賛美論はさすがに少ないが、ラミスさんの言う「隠れざまあみろ論」は極めて多い。「報復戦争反対」とは言うが「無差別テロ糾弾」「テロ反対」とは絶対に言わない。集会や行動のスローガンとしてそうした文言を入れることに頑強に反対する。あるいは政治的判断を隠して「悲劇」という表現で誤魔化す。残念ながら、このような態度をとる党派やグループの方がむしろ多いというのが、世界でも特異な日本新左翼の極めて否定的な現実である。

反グローバリズム運動との切断

 それではなぜ日本の新左翼諸グループのなかに、無差別テロ賛美論や「ざまあみろ論」「隠れざまあみろ論」が多いのだろうか。それにははっきりした根拠がある。

 第一の理由は、日本の新左翼諸党派が世界の帝国主義国のなかでも稀な大衆運動の陥没状況に置かれているということである。八〇年代から急速に強まった新自由主義の攻勢がソ連崩壊とともにさらに強まり、それに対してほとんど一矢も報いることができず、後退に後退を重ねてきたという無力感と閉塞感がまんえんしている。このような意識にとらわれた新左翼諸党派にとって、九月十一日の無差別テロは自分たちが手出しもできない「アメリカ帝国主義の暴虐」に痛打を浴びせた「快挙」であり、カタルシスを与えてくれるものだったのである。

 第二の理由は、第一の理由と裏表の関係にあるが、日本を除く帝国主義諸国でこの間、大きく高揚してきた反グローバリズム運動に対する無自覚である。WTOシアトル会議粉砕闘争の勝利やジェノバサミットを包囲した二十万人のデモが示すように、この反グローバリズム運動は、歴史的生命力を使い果しつつある世界資本主義の危機の進行のなかで、第三世界の闘いと具体的運動を通じて連動・連携しながら力強く前進してきた。

 反グローバリズム運動の前進は、単に新自由主義的諸政策に反対するだけではなく、多国籍資本の支配がますます強まる世界を、自分たちの闘いを通じて別の世界に変革することができるのだという希望を作り出し始めていた。それを象徴するものが、シアトルで、ニースで、ソウルで、イェーテボリで、ジェノバで、そしてポルトアレグレで、巨万のデモが帝国主義支配者たちの国際会議を包囲するあらゆる闘いの現場で叫ばれた、「オルタナティブな世界は可能だ!」「もうひとつの世界は可能だ!」という、変革への希望に満ちたスローガンだった。

 日本新左翼にまんえんする無差別テロ賛美あるいは容認の姿勢は、大衆運動が陥没状態に陥った日本のなかに一国主義的に閉じこもり、このような新しい希望に満ちた闘いが世界的に前進し始めているという実感を持つことができず、無力感と閉塞感に取りつかれてきたことの裏返しの表現に他ならない。無差別テロが、自分たちでは手も足も出ないアメリカ帝国主義に大打撃を与えたように錯覚し、それに飛びついたのだ。いうまでもなくそれは、深刻な政治的腐敗の表現である。

 第三にそれは、日本新左翼の伝統的一国主義の表現である。アメリカの労働者階級を社会主義革命に向けて組織することなど一度たりとも考えたこともないからこそ、急速に戦闘性を取り戻しつつあったAFL―CIOの組合員をはじめとする何千人もの労働者を虐殺し、結果として右派を強化した無差別テロを「画歴史的行為」(革マル派)などと賛美することができるのだ。そしてまた、インターナショナリズムと無縁の一国主義であるからこそ、世界的に始まっている新しい希望に満ちた闘いに気づくことができないのである。

敗北の主体的総括の不在

 第四の理由は、日本の新左翼を世界でも稀な大衆運動の陥没状況に追い込んだ自らの主体的責任についての無自覚である。それは、社会主義革命運動にとって、あるいは労働者人民の搾取やあらゆる差別・抑圧からの解放ををめざす闘いにとって、民主主義と人権を守る闘いが決定的に重要であるということについての自覚が、ほとんど欠如しているということである。

 ヨーロッパの反グローバリズム運動の政治的中心を担っているのは、六八年五月革命世代である。この世代と運動は、八〇年代から九〇年代に大きな後退を強いられはしたが、層として生き残ることに成功した。そして九〇年代後半以降、ますますあからさまになる新自由主義に対する反撃が始まり、さまざまな領域の闘いが結びついた新しい社会運動として、反グローバリズム運動の力強い前進が始まったのである。

 これに対して日本の全共闘世代は層として消滅し、そのほとんどが「企業社会」に取り込まれてしまった。層としての学生が自治会を通じて政治的意志を大衆的に表現する学生運動の歴史的連続性も崩壊した。共産党や社会民主主義に代わる社会主義をめざす新しい労働者政党をめざしてきた政治グループは、大衆的日常生活から切り離されて周辺化された状況に追い込まれている。

 このような状態をもたらした主体的要因は、第一に「東アジア反日武装戦線」の三菱重工本社ビル爆破事件や、「連合赤軍」の凄惨な内部リンチ殺人事件、重信房子ら「日本赤軍」のテルアビブ空港乱射事件をはじめとする、極左冒険主義的テロ路線とその無残な破産であった。それはいまでもカンパニア主義的な「放火テロ」などの形で受け継がれ、「過激派」への大衆的嫌悪感を効果的に作り出し続けている。大衆運動陥没の第二の主体的要因は、三ケタの死者を出しながら大衆の面前で続けられた、革マル派、中核派、解放派の流血の内ゲバ戦争であった。

 これら多数の一般市民まで殺傷するテロや、運動内部の民主主義も活動家の最低限の人権も踏みにじる内ゲバが、新左翼に期待した広範な労働者や学生を混乱させ、嫌悪感を抱かせ、絶望させ、離反させ、社会変革への希望と関心を急速に失わせて、全共闘世代の政治的消滅と学生運動の連続性の崩壊をもたらした。それは当然にも、左派の大衆的基盤を喪失させ、社会的規定力をほとんど失わせてしまった。それは改良主義的政治潮流や改良主義労働運動に対する左からの圧力の消滅をもたらし、いまや新自由主義に対する大衆的抵抗がほとんど存在しないという国際的にも特異な政治社会状況を作り出したのである。

 内ゲバ主義と極左冒険主義的テロを実行してきた党派、それを厳しく批判することを回避してきた党派やグループが、無差別テロ賛美論や「ざまあみろ論」「隠れざまあみろ論」に陥っていることには、はっきりした思想的根拠がある。

ソ連・東欧崩壊と民主主義

 第五の理由は、ソ連・東欧の崩壊とロシア革命以来の世界社会主義革命運動の一サイクルの終焉という歴史認識、時代認識が決定的に欠如しており、したがってそのような時代のなかで問われている民主主義と人権の重要性について、全く理解することができないということである。それは第四の理由と一体のものでもある。

 ソ連・東欧の崩壊によって、ロシア革命の勝利を基盤に成立してきた「オルタナティブとしての社会主義」という意識は崩壊した。大多数の労働者人民にとって、社会主義とは失敗した歴史的実験としてとらえられている。ソ連・東欧の労働者人民は、「社会主義」をスターリニスト官僚専制による民主主義と人権の圧殺と等置し、それを拒否した。そして全世界の労働者人民の圧倒的多数が、そのように考えている。

 このような状況のなかで、スターリニズムによる歪曲を克服した民主主義的で国際主義的な社会主義の展望を、一つ一つの具体的運動を通じた経験によって大衆化するために、ねばり強く闘い抜かなければならない。ここにおいて求められているのは、スターリニズムのどのようなあらわれも厳しく批判しなければならないということであり、とりわけ人権と民主主義を抑圧するどのようなあらわれとも徹底して闘いぬかなければならないということである。

 民主主義も人権も踏みにじって内ゲバ殺人に明け暮れてきた諸党派、それを断固として批判することを回避し運動内部の民主主義を守るために闘いぬこうとしなかった諸党派は、民主主義と人権のために闘うというこの決定的に重大な課題について理解することができない。そして無差別テロ=無差別大量殺人は、民主主義と人権を踏みにじる行為の最たるものである。

 アメリカ帝国主義を先頭に、帝国主義諸国は「テロ対策」を口実にして人権侵害や民主主義の制限を強化しつつある。米議会は外国人の令状なしの逮捕と無期限拘留を可能とする「反テロ法」を採択した。日本でも盗聴や国民総背番号制などのあらゆる手段を通じて、個人の内面にまで踏み込む権力による日常的人権侵害や情報管理、民主的権利の侵害が、ますます強まろうとしている。

人権と民主主義を踏みにじる無差別大量殺人=無差別テロを賛美したり、あるいは容認したままで、人権と民主主義を守る闘いを前進させることはできないし、とりわけアメリカで「報復戦争」を支持する圧倒的世論を突き崩して戦争反対が多数を制することなど絶対にできないのだ。

 スターリニズムによる歪曲を克服した民主主義的で国際主義的な新しい社会主義の展望を、大衆運動を通じた長期にわたる具体的経験を通して根づかせるために闘いぬかなければならない。反グローバリズム運動の高揚は、このような大衆的経験の過程が世界的に始まりつつあることを示している。

無差別テロはこのような新しい希望の道を閉ざす犯罪である。無差別テロ賛美論、容認論に対する厳しい批判が必要である。「テロにも報復戦争にも反対!」という大原則を守りぬかなければならない。

(10月12日 高島義一)

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