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レーニンを「一国社会主義者」に描き出す不破哲三の歴史偽造 (週刊かけはし 2000年10月9日号)

不破哲三『レーニンと資本論』第36回(『経済』誌連載)批判
頑固派スターリニストの面目躍如

 資本のグローバリゼーションがとめどなく進行している。かつてのような、アメリカやドイツやフランスや日本などそれぞれの帝国主義本国に基礎を置き、全世界に生産拠点や販売網を張り巡らせた多国籍企業の支配は、ダイムラー・クライスラーや日産・ルノーのように、出生国の政治経済を超越した超国籍巨大企業の支配に席を譲りつつある。通貨統合に行き着いたヨーロッパを先頭に、資本の世界展開にとっての国境の壁を事実上、解体するような国際協定やシステムが、次々に作られている。

 また九七年末のアジア通貨・金融恐慌は、グローバル資本主義の暴力がささやかな国民経済的成果など一瞬にして粉砕してしまうということを実証した。

 このような中で資本の支配を打倒し、搾取や貧困や、政治的暴力や差別のない社会主義をめざそうとするとき、それが最初から国際的な共同作業として展開されなければ絶対に勝利することができないことは、もはやだれにでもわかるはずの現実である。

 経済封鎖されれば輸出入が止まり、干上がってしまうというような水準ではない。すでに八〇年代の多国籍企業化と生産の海外移転の進行によって、国内は管理・研究開発と販売に特化し、生産拠点はすべて海外にあるというような企業も珍しくはない。一国的に権力を握った労働者階級が資本の支配を排除して搾取のない生産を再組織しようとしても、実際に物を作っているのが海外の労働者であり、そこでは資本の支配が貫徹しているとすれば、ほとんどなすすべのない状態に陥ってしまうだろう。

 またこのような多国籍企業の場合、管理に携わる国内の労働者の仕事は、最大限の利潤を求める資本の意を受けて、低賃金で働く海外の労働者をより円滑に搾取するということである。苛酷な労働条件のもとで働かされている海外の生産部門の労働者の闘いを自らの課題として連帯して闘うことができなければ、資本の支配と闘うどころか資本の先兵としての地位を抜け出すことさえできないであろう。

 すなわち、社会主義をめざす闘いは最初からインターナショナルなものでなければ有効性を持たないし、そもそも一国的には完結し得ないものなのである。百五十年も前の、マルクスとエンゲルスの時代、今日の社会主義革命運動が出発した時代から、それは当たり前のことだった。『共産党宣言』が簡潔に描いているように、資本主義は世界市場を形成することによって、各国の経済を切り離し得ない有機的に一体のものとして互いに結びつけてしまったからである。

 だからこそマルクスもエンゲルスもレーニンもトロツキーも、社会主義革命をめざす各国の党をひとつに結びつけたインターナショナルの建設に全力を上げたのであり、労働者の国際主義的連帯を強化する闘いに全力を上げたのである。社会主義革命が全世界の労働者の協同作業であることがマルクスとエンゲルスの時代に真理であり、「一国社会主義」が不可能であることが真理だったとすれば、それは資本のグローバリゼーションが当時とは比較を絶するようなすさまじい勢いで全面化している今日、かつての百倍も真理である。

 日本共産党不破委員長は、雑誌『経済』に連載中の「レーニンと資本論」(00年9月号に掲載された連載第三十六回「転換点││一九二〇年十一月」)のなかで、徹底したインターナショナリストだったレーニンを「一国社会主義者」として描きだし、日本共産党の路線はそれを継承するものだとする歴史の偽造を行っている。

 不破がここで言いたいことは、レーニンは一九二〇年半ば過ぎまでは「一国社会主義不可能論者」、「国際社会主義革命不可欠論者」であったが、帝国主義による干渉戦争に打ち勝つことによってソビエト共和国が「資本主義諸国の網の目のなかで基本的な国際的存立をかちとった新しい一時期を獲得した」(一九二〇年十一月の演説「わが国の内外情勢と党の任務」)という新たな認識に到達したことによって、「一国社会主義可能論者」に一八〇度転換した、というものである。

 不破は、この演説から七ヵ月もたった翌年六月のコミンテルン第三回大会で、レーニンが「この一時期」について「きわめて不確かで、きわめて不安定なものであるが、それでも社会主義共和国が資本主義的包囲の中で││もちろん、短い期間であるが││存立していけるような均衡が生じた」と、繰り返し限定づけていることに触れている。すなわちそれは、レーニンにとって「長期的共存」でもなんでもなかったのである。

 にもかかわらず不破は、この演説が「ソビエト政権は資本主義諸国との長期的な共存の一時期を獲得した」という新しい認識にレーニンが到達したということを示すものだと強弁する。そして前掲演説のなかから、「勝利したプロレタリアートは、共産主義体制、制度を作り出すことができるということを、膨大な農民大衆全体と小ブルジョア分子、および他の国々に対して、言葉で説得するのではなく、行為で実証するような実例を示す」ために闘うべきである、という主張を引用して次のように結論づける。

 「ここで、レーニンは、共産主義体制の建設に進むには、少なくとも数カ国の先進国での革命の勝利が必要だということも、これら先進国の勝利したプロレタリアートの協力を得てはじめて、ロシアが共産主義の道に進むことができるということも、もはや口にしません」。

 「資本主義国との長期的な共存という新しい一時期をかちとった情勢のもとで、レーニンは、今までとは違った視野と展望をもってロシアの経済建設の問題に取り組み、平和的な環境がかなりの期間にわたって確保されるならば、ロシア一国であっても、社会主義、共産主義の制度を建設する道を前進し、それをやり遂げることができる、という結論に到達したのです」。レーニンはここで「国際社会主義革命不可欠=一国社会主義不可能論者」から、「一国社会主義可能論者」に一八〇度転換してしまったというわけである。

 「一九二〇年十一月の転換」なるものを事大主義的に押し出す不破のこの詐術は、結局のところきわめて単純な、しかもすでに七十年以上前にトロツキーと左翼反対派によって批判され尽くした、使い古されたスターリニストの常套手段にすぎない。いまさら言うのも恥ずかしくなるほどだが、社会主義革命に勝利して権力奪取に成功したある一国で、革命権力を防衛しつつ資本の支配を排した経済建設を進めなければならないという当たり前の主張と、その一国の国境内で自足的に社会主義社会を完成させることができるという途方もない反マルクス主義的主張を、意識的に混同させるという単純なものである。

 一九一八年四月、レーニンは全ロシア中央執行委員会の会議でこのように述べた。「次の世代も社会主義への完全な移行をやり遂げることは、難しいであろう」。ところが、そのわずか一ヵ月後の一九一八年五月に、レーニンはこう語った。「もし、およそ半年後に、わが国に国家資本主義がうちたてられるとしたら、それは大成功であり、一年後にわが国で社会主義が最後的に確立されて不敗となるだろうということの、もっとも確実な保障となるであろう」(「左翼的」な児戯と小ブルジョア性について)。

 わずか一年でロシアに「社会主義が最後的に確立されるだろう」? ひょっとするとレーニンは、不破が「発見」した「二〇年十一月の転換」の二年半も前に、すでに「転換」していたのであろうか。ところがそれから一年半後の一九一九年十二月には、再びこのように言う。「われわれは、いますぐ社会主義的秩序を導入することができないのを知っている。││願わくば、われわれの子どもたちの時代に、あるいは孫たちの時代になるかもしれないが、これがわが国で確立されんことを」(農業コミューンおよび農業アルテリ第一回大会での演説)。

 誤解の余地はない。「一年後に社会主義が確立されるだろう」と言ったり、何十年も先の孫の世代になれば「社会主義的秩序」が導入できるかもしれない、と言ったりしているのは、ジグザグでも「転換」でもない。それは単に、社会主義革命政権の確立と強化、あるいはその下での経済建設と、階級なき社会主義社会への移行という、まったくレベルの違う問題をそれぞれ語っているに過ぎなかったのである。

 「社会主義社会は共産主義社会の第一段階である。この段階においては、人による人のいっさいの搾取が根絶され、階級による社会の分裂は終わる」。そこでは「これまでになく高い物質的繁栄と精神的開花、広い人民のための民主主義が保障される」。「共産主義社会の高い段階では、生産力のすばらしい発展と社会生活の新しい内容がうちたてられ、社会は『能力におうじて働き、必要におうじてうけとる』状態に到達する。組織的かつ系統的な暴力、一般に人間に対するあらゆる暴力は廃絶される。原則として一切の強制のない、国家権力そのものが不必要になる共産主義社会、真に平等で自由な人間関係の社会が生まれる」。

 社会主義社会、共産主義社会がこのような社会であるとすれば、それを一国内で、しかも短期間に建設できるはずがないことは疑問の余地がない。第一次世界大戦による破壊と、革命勝利後の帝国主義に支援された反革命軍との激しい内戦、そして帝国主義諸国の干渉戦争を経て、文字通り疲弊し尽くしたソ連邦が、帝国主義の包囲と対峙しつつ一国でそのように豊かで、民主的で、暴力もなく、階級への分裂を克服した社会主義社会、共産主義社会へと進むことができるなどという幻想を、レーニンが持てるはずがなかったのだ。もうわかった人もいると思うが、引用した社会主義・共産主義の規定は、現行の日本共産党綱領の一部である。

 農民が圧倒的多数を占めるロシアで、労働者階級と小土地所有者としての農民の間の「階級の分裂」を短期間にむりやり解消しようとすれば、数えきれない農民の命を奪い、強制収容所にたたき込んだあのスターリンによる「農業の強制集団化」しかなかった。そこで起きたのは「高い物質的繁栄」どころか深刻な飢餓であり、「広い人民のための民主主義が保障される」「人間に対するあらゆる暴力が廃絶される」どころか、スターリニスト官僚支配体制による苛酷極まりない無制限の暴力の行使であった。形成されたのは、社会主義、共産主義とは無縁のスターリニスト官僚専制社会であった。

 不破の言う「一九二〇年十一月のレーニンの転換」とは、「社会主義日本」「共産主義日本」という自分たちの反動的ユートピアを理論的に粉飾するものである。同時に、「社会主義革命」をめざすという規約前文を削除するにいたった日本共産党の全面的右傾化と社会民主主義化の中で、「わが党はマルクス主義を最終的に放棄しつつあるのではないか」という不安を抱き始めている多くの古参党員を安心させ、「今日の路線はやはりレーニンを継承したものであるらしい」と思わせるための苦心の作である。

 スターリンの一国社会主義路線は、コミンテルン各国支部としての共産党とそれが指導する各国の労働者人民の闘いをソ連邦防衛の手段におとしめることによって、国際階級闘争に繰り返し深刻極まりない打撃を与え、勝利する可能性のあった幾多の革命を血の海に沈めてきた(これについては山西英一『国際共産主義運動史』、ピエール・フランク『第四インターナショナル小史』新時代社などを参照)。そしてそれは最終的に、一九九一年のソ連邦崩壊に行き着いたのである。

 不破はソ連邦と国際階級闘争の命運がかかっていたスターリンとトロツキーの「一国社会主義論争」について、この連載論文の終わりの方で「後日談」として触れて言う。「わたしは、この論争の主題そのものについて言えば、スターリンのだした結論││ロシア一国でも社会主義の建設は可能だという立場が道理をもっており、それは、レーニンが最後の時期に立っていた見地とも合致していたと考えています」。
 その上で不破は、「トロツキーは『レーニンの転換』に気づいていなかったために、一国社会主義不可能論に固執した」「スターリンの実践的方向性は正しかった。しかし『レーニンの転換』に気づかなかったため、それを説明するための理論は矛盾と誤りに満ちたものになった」という、珍無類の新見解を披瀝している。そして一九五九年に不破が執筆した「現代トロツキズム批判」(『マルクス主義と現代イデオロギー』大月書店)の一節を引用し、結局はそれが正しかったのだと述べている。

 一国で「社会主義日本」「共産主義日本」をめざすという不破共産党が、その遠大な目標に迫る第一歩は、なんとしても反自民連合政権の一角に食い込むことである。そのために、「安保堅持論者との連合政権」構想という「政権論」を打ち出し、当面は安保廃棄は要求せず、自衛隊を容認するだけでなくその武力行使まで認めてしまった。天皇制の廃絶をめざす闘いも棚上げになった。

 国際路線では、昨年のアジア歴訪でマハティールなど国内で反民主主義的弾圧を続ける開発独裁政権と「内政不干渉」を確認し、中国江沢民政権とも友好関係を結んで、人権弾圧や、三資企業や郷鎮企業のむき出しの資本主義支配と闘う中国人民の苦闘に対しては知らん顔を決め込んでいる。

 九月二十一日に発表された「日本共産党第二十二回党大会決議案」には、「アメリカ帝国主義」という言葉さえ出てこない。周辺の反動的諸政権やアメリカ帝国主義ともことを荒立てず、城内平和を守る。スターリンの「一国社会主議論」の、見事な今日的継承がここにある。

 ソ連崩壊から十年、トロツキーやロシア革命についてのすぐれた研究や文献が多数存在し、だれにでも入手可能になっている今日に至って、不破はなおもこのようなすさまじい「研究」を発表し、七十年以上前に論破されているスターリニズムのでたらめな「理論」を正当化し続けている。不破哲三という不誠実な「理論家」の頑固派スターリニストぶりには、いまさらながらあきれ果てるばかりだ。

 ソ連邦の崩壊によって、ロシア革命以来の世界社会主義革命運動の一サイクルは終焉した。二十一世紀に向けて次のサイクルを作り出そうとする闘いにとって、スターリニズムを根本的に総括するとともに、スターリニズムのどのようなあらわれとも徹底して自覚的に闘うことが不可欠である。多くの労働者人民が、いまなお社会主義をスターリニズムと等置し、それを拒否しているからである。われわれは、誠実な批判的共産党員とともに、そのような闘いを推し進めるであろう。 9月24日  

(高島義一)

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