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神なき時代のメンタルヘルスについて、アホなりに考えてみようと思った

以下の文章を読んだ。  

note
森田洋之『人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える』  

https://note.com/hiroyukimorita/n/nf86e44f3e4dc  

読んでて、思い出したこと思い浮かんだことを思いつくままiPhoneのメモ帳に書き留めていたら、全然まとまらない。読みにくいしダラダラしてるし長いし嫌気がさしたけど、大事なこととは思うので、そのままアップしてみる。いずれ読みやすく分かりやすい文章にまとめたい。  

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2009年から6年間、とある大学で非常勤講師の職を得た。引き受けた科目は「老年心理学」と「障害心理学」だった。  

週に2コマの小さな仕事だったのだけれど結構大変だった。職業柄、身近なテーマではあったのだけれど、体系的にまとめたことはなかった。参考文献を読み、データを集め、シラバスに沿って細々と資料を作成し、毎週講義をした。  

学生さんたちにとって聴く価値のある講義ができたという自信はないけれど、めたくそ勉強になった。と言うか、「こんなことも知らないまま考えないまま、仕事してたのか、生活してたのか」「アホかオレは」と思った。  

障害とは?
病気とは?
老いとは?
自立とは?
幸福とは?
差別とは?
偏見とは?
高齢化の心理社会的意味とは?
テクノロジーの意義とは?
そして、
死とは?
神とは?  

心理学の講義と銘打ちながら、やっていたことは無節操にあれこれ情報を取り込んで、自分なりに頭を整理する作業だったように思う。  

で、自分なりにポイントがいくつかに絞れてきた。  

①自立とは、さまざまな制約がある中で、自らの意思で、自らのライフスタイルを主体的に選択できる力を持つことである(熊谷晋一郎さんの「依存先を増やす」という言葉は目からウロコだった)  

②老いとは、生物学的機能が徐々に低下し、障害を被り、死へと至るプロセスである。  

③テクノロジーや医療福祉などの社会システムの進化により、日々の生活おける物理的心理的負荷は大幅に軽減し、基本的な生活の質は向上し、以前であれば致死的であった状況の大半を回避できるようになり、平均寿命は大幅に延長した。以前であれば死に至ったであろう病気や怪我を治療し延命させることが可能になった。健康寿命を大幅に延ばせるようになった。

しかし、病気や怪我を被る以前の状態にまで回復させられるとは限らない。死は免れても生活上の障害を抱えることは避けられないことも多い。  

高齢化についても同様だ。以前であれば比較的健康を保った状態で偶発的なトラブル(不運!)によって死に至る人が大半で、乳幼児の大半は死んだし(だから皆子孫を絶やさぬためにたくさん子どもをつくったのだ)、長生きなんて宝くじみたいなものだったのが、健康状態を損なったままでも多くの人が長期間生き続けられるようになった。それが福引レベルのあたりまえのことになった。

テクノロジーの進化により、障害を抱えた人が増えるという状況になったわけだ。当たり前のことだけど、「進化して障害が増える」っていうのが脳みそ的にしっくりこないから「テクノロジーの逆説」と呼ばれたりもする。  

大多数の人がいずれ、人やテクノロジーによる介護的支援を必要とする障害者になる世の中。障害の普遍化だ。  

④テクノロジー(特に医療)の発展により、人為的な治療延命が可能になった。医療なき世の中においては、生死の決定を行うのは神様仏様だった。人はただ神の御加護を祈り、また神の決定を受け入れた。  

どの道自分たちの力が及ぶ範囲など微々たる状況なわけだから、その微々たる状況の中で可能な限りリスクを減らす努力をした。  

目指せ!力及ぶ範囲でのゼロリスク!だ。  

ただどんだけ努力したって減らせるリスクは微々たるものだ。たくさんの人が驚くほどあっさりバタバタ死ぬのが当たり前だった。でも誰しも死にたくはない。だからこそ必死に努力して工夫した。死のリスクを減らすこと(ゼロリスク希求本能)が至上命題として人の脳に、社会システムに組み込まれた。死は忌むべきもの何をおいても回避すべきものという信念が組み込まれた。  

現代は、生死の決定が神様仏様から人の手に渡された世の中だ。子どもを生む生まない、ワクチンを接種するしない、ガンを切除するしない、胃瘻を付ける付けない、人工呼吸器のスイッチを切る切らない。生死を分ける大半の決定が自分か、家族の意思に委ねられる。  

神様仏様は答えをくれない。  

ただ「怖れるな」「あるがままに」としか言ってくれない。「それが難しいから相談してんだろ!」ってなる、、、  

ニーチェ的に言えば「神は死んだ」わけだ。ちなみにニーチェの著作を最後まで読み通したことはない。  

神様仏様に感謝したり恨み言を言ったりするしかなかった(してればよかった)時代は終わった。多くのことを自分たちの意思で、責任で決めなきゃいけなくなった。ありがたいことでもあり、辛いことでもある。  

意識を失い回復の見込みのない大切な身内の人工呼吸器をオフにする承諾書にサインをするってどんな気持ちだろう。自分の手で、大切な人の命のスイッチを切るってどんな気持ちだろう。本能が何よりも避けることを要求してくる選択に反することはどれほどのストレスだろう。経験したことないから分からない(自分のことはなんとかなるかもだけど、家族については本人に決めといてほしい)。  

だからこそ人は、危機的と思える時世であればなおのこと、そんな選択を迫られる状況を避けようとする。神様仏様に代わって安全保障の役割を担っているシステムに、自分たちを守れと果てなく要求し続ける。意思決定を先送りしようと必死になる。  

でもシステムを担うのは神様仏様ではない。人だ。要求する側と同じ脳みそと本能を持った人だ。万能ではないし、制約も山ほどあるし、限界もあるし、理性的ではない。悩みや不安もあれば、家族も友人もいれば、住宅ローンや持病や不倫や娘のつれない態度に心痛めていたりもする人だ。  

「勝手なことばかり言うな。やるだけやってるわ!ゼロリスクとか無理筋だって小学生でも分かるやろ。なんなんだ!?みんなバカなのか!?」  

そんな憤りを感じてもおかしくない。  

なんだ、これ?全然まとまらない、、、  

要するに、ポイントは二つだ。  

①心理学を学ぶことは大事。今の時代に本能に振り回されると損するよ(社会心理学と進化心理学と行動経済学がお勧め)  

②自分で考えて、自分で決めることに慣れなきゃいけない。「他人に任せる」って自分で決めるのもありだけど、その場合は任せた相手をあんま責めちゃいけない。感謝の気持ちが大切だ。  

ちょっと、ちゃんと頭を整理しよう。

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