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私の読書感想文

娘と読書感想文をめぐるやりとりをして、久しぶりにちょっと自分も書いてみようと思ったのでした。
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**授業とセラピーとダイアローグ〜灰谷健次郎『私の出会った子どもたち』を読んで **
四〇年一組 梶原慶 

大先輩である精神科医の先生に教えてもらった本を読んでいる。詩人・灰谷健次郎さんの『私の出会った子どもたち』(角川文庫1976)という本だ。まだ半分も読んでないのだけれど、大切なことをたくさん教えてくれる本だ。 

その中の一章「教えるということ」の冒頭の文章が引っかかったので、メモとして残しておく。 

灰谷さんが「もろもろのいのちの存在の意味を、学ぶということを通してさし示してくれた天の人」と評する、林竹二先生の言葉だ。 

(以下引用)
「一所懸命に勉強しようとしている子どもと、いたずらをしてやろうという子どもと、対し方を使い分けるような器用さがない」 

こういう言葉に、ぼくは目をむいてしまう。 

林竹二先生は次のようにもいうのである 

「私の授業の展開は、あなたまかせで、ほとんど子どもがひっぱっていくわけです。よく、『何かプランがあるでしょう』ときかれるんですが、絶対にない(笑い)と私はいっているのです。自分の思いどおりに進行した授業はつまらない。子どもから思いがけないものが出てきて、こっちが面くらって何とか筋道を探り当てて展開していくような授業がほんとうはいい授業なわけです。そういうときに、まごまごする能力が教師には必要です(笑い)。ほんとうにまごまごしたり、子どもといっしょに途方にくれたりということが教師にも子どもにも必要なのですが、かっこうをつけようとすると無理して強引に自分の答えられるところに問題を持っていってしまったりする。そういうことが授業をひどく貧しくするのでしょうね」
(ココマデ) 

セラピーと同じだと思った。というか、学校の授業もセラピーも、いわゆる「ダイアローグ」として成立することが、一つの理想形なのだと思った。 

教える/教えられるという関係性が溶けて、フラットな、じゃないな、ある一定の枠の中で、双方が上に行ったり下に行ったり、前後左右斜めにと常に柔らかに関係性を変化させながら、ポリフォニックに自由に動き続けることで、未だ見ぬ新しいステキなものを生み出すべく協働するプロセス。 

自分の仕事を振り返ってみる。 

まごまごしたり途方に暮れたりするという条件は満たせてるなw 「どこに向かうのか分からない」という不安にはよく晒される。いや、ちがうな。「分からない」から不安じゃなくて、マズイ方向に向かってそうだと感じるから不安なのだ。そして多分その「マズイ」っていうのは、単に「自分にとって想定外」ってだけの話であることがほとんどなんだろうな。ただ自信がなくてビビってるだけだ。だってホントにマズけりゃバカでも気づくし止めるだろう。 

「まごまごし続けられる能力」は低いな。いわゆる「不確実さへの耐性」というやつだ。低いな。かなり低い。耐えきれなくなって、自分の許容できるスペースやポジションに相手を引き込もうとしてしまうことは、まだまだあるな。そして、だいたい失敗する。 

「面食らいながらも何とか筋道を探し当てて展開していくような」ダイアローグ。ジャムセッション。 

そんな時間・空間にアッサリと気持ちよく身を放てるようになりたいもんだ。自分の思い通りに進行したセッションを「つまらない」と一蹴できる心境に至りたいものだ。 

それがホントの「自由」ということなのだろうと思う。 

日々是修行。 

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割とスラスラ書けたw 

国語の先生にマジ採点やダメ出しをしてもらいたいw 提出したら「引用が長すぎる」「最後まで読みなさい」とか注意されそうだ。

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