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「あまりに概念的でカタ過ぎる」という理由でボツになった「カウンセラー視点の文章」

「ウチのZINEにカウンセラー視点の文章を寄せてほしい」ー 知人の依頼を受け、かなり気合を入れて文章を書いた。三日ほどあれこれイジり倒して仕上げたのだけれど、依頼者の好みに合わず「ボツ」った。残念...

なんかもったいないので、こちらに残しとく。

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<考える>の悪循環を断つ<対話>の作法
〜『トム・アンデルセン〜会話哲学の軌跡』のススメ

⚫︎はじめに

僕はカウンセラーだ。

苦悩や不快な感情に苛まれ、心が壊れそうになっている人たち=クライアントの相談に応じるのが、僕の仕事だ。原則、年齢性別は問わない。

ケガ、病気、事件、災害、あるいは対人関係や仕事や経済上のトラブルなど。誰の足元に、いつ、どんな不幸の種が蒔かれるか、どんな難題をつきけられるかは、予測不能だ。

誰しも難題に直面すれば、否が応でも対処せざるを得ない。安穏とはしてられない。状況を好転させるべく、脳みそフル回転で必死にあがき考える。

運良く解決に向かえば、良し。

懸命のあがきも虚しく改善の兆しなし、なんてことはままある。状況は却って悪化、なんてことさえある。

一年後、明日、いや数分後。そんな絶望的な悪循環に絡めとられてしまう可能性は、誰にだってある。

人が、そんな悪循環から抜け出すのに役立つサポートってどんなの?

そもそも人は、なぜ悩み苦しまなきゃいけないの?

考えるほどドツボにハマるなんて不幸な事態が、なぜ起こるの?

この仕事を通じて、僕が最近グルグルと考えていること、大切に思っていることを、少しだけ文字にしてみようと思う。

ない知恵を絞って、俯瞰してみようと思う。

⚫︎快と不快

僕らは忙しい。

生きている限り、日々否応なく、大小無数の出来事に直面させられる。数多の他人と関わり、その表情、仕草、言葉に右往左往させられる。

それらはなんの断りもなく、目や、耳や、鼻や、舌や、皮膚を通じて、僕らの内側に侵入してくる。発生する一つ一つの感覚は、良くも悪くも、僕らの内臓を揺らし、記憶を賦活し、感情を刺激する。

あらゆる動物にとって「生きる」とは「不快」の感覚に対処しつづけることだ。

お釈迦様は「一切皆苦」と言った。

ヴィトゲンシュタイン先生は、この世界を「嵐が吹き荒れる」場所と名指した。

うんざりする。

たまに訪れる「快」の感覚は、しばし僕らに心地よく安らいだ気分を与えてくれる。

至福の一時だ。

愛しい人の笑顔、感謝の言葉、嬉しい驚きや発見、お気に入りのカフェのコーヒー&スイーツ、抱き上げた赤ん坊の無垢な表情や柔らかな感触、邪気を溶かすシンプルな音楽、琴線を揺らす魔術的な文章、静寂の夜空に浮かぶ優しげな満月、明け方の無人の街中で独り見上げる美しい日の出。

最近読んだ、敬愛する故坂本龍一教授の遺作『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社, 二〇二三)は、この上なく美しく、心地よかった。どうしようもなく寂しく哀しくなったけど、まったく不快はなかった。

快の感覚に「意味」は不要だ。それ自体がダイレクトに「価値」である。何も考えなくていい。ただ身を委ね、味わえばいい。

それは、不快に満ちた生のタイムライン上に、ごくたまに挿入される、稀少な「ギフト」のようなものだ。

⚫︎生きるとは、自然に抗い、不快に対処しつづけること

高校の頃に習った「熱力学第二法則」によれば、この世に存在するすべての事物は、放っておくとエントロピーが増大しつづけ、混沌・無秩序の状態へと散逸してしまうらしい。

人間も含むあらゆる事物は、そのつながりやまとまりを崩壊させんとする冷酷な圧力に、常時、無数の次元でさらされつづけているわけだ。

僕らは、無意識的にも意識的にも、そんな不快な圧力に抗いつづけねばならない。そうしないと、心身は至るところに支障を来たし、バラバラになり、いずれ無に帰すことになる。母なる自然に回収されてしまう。

つまり、死ぬ。

生きるとは、自然法則に「抗う」ということだ。

平穏を脅かす圧力の侵入。外圧を察知した僕らの心身が発する、緊急警戒アラート。

それが「不快」の感覚である。

一般にそれは「ストレス」と呼ばれる。

苦痛、不安、怒り、恐怖、違和感、危機感。「眠い」「腹減った」レベルの軽いものから、「命の危機」レベルの重いものまで、バリエーションは多様だ。

「この圧力、放置すると危険。即刻対処せよ」

そんなメッセージが高頻度で送られてくるわけだ。

ありがたくもあり、鬱陶しくもある。

このアラートを受けとると、僕らの内側には「モヤモヤ」が発生する。

「不快だ」と騒ぎ立てる扁桃体や大脳辺縁系を鎮めるべく、「ああでもない、こうでもない」と前頭前野が働きはじめた兆候である。

⚫︎考えるとは不快に意味を与えること

不快の感覚を鎮めるには「意味」が必要となる。

「なぜこんなことが起こっているのか」
「何がどう絡み合っているのか」
「なぜ自分がこんな目に遭わなきゃいけないのか」
「どうすれば解消できるのか」

「意味」を生み出す心理学的な営み。

目の前で起こっていることを言葉で記述し、その因果関係や存在理由について「腑に落ちる説明」を、これまた言葉で与えようとする試み。

それが「考える」ということだ。

目の前の出来事なり現象なりに、一体どんな意味があるのか。実感・納得できるような解釈を捻り出す。

どんな解釈も「真実」ではありえない。偉大な哲学者やノーベル賞級の天才科学者の言説であれ、五歳児の癇癪まじりの罵詈雑言であれ、それらは一抹の確からしさを含んだ仮説でしかない。

根拠のあるなしは、それほど重要ではない。
なんとなく「腑に落ちる」かどうか。それが重要だ。

なんらかの意味を見出せて、ようやく僕らは思えるのだ。

「まぁ仕方ない」と。

僕らは「意味なき世界」に耐えられないのだ。

⚫︎心とは意味なき世界に意味を与える仕組み

物理学とか量子力学といったハードサイエンスの視点から煎じ詰めれば、この世で起こっていることは、一定の法則に沿った量子のふるまいにすぎない。次元を超えたその普遍法則(大統一理論)は未だ発見されてはいないけれど、いわゆる「意味」なんてものが実在しないことは明白だ。

すべては何らかの法則に従って「起こるべくして起きている」のだ。

「意味」とは、関係性の狭間に生み出されるヴァーチャルな仲介的情報、あるいは電気化学的な情報処理プロセスの残滓でしかないのだ。

良いも悪いも、正しいも間違っているも、ない。

正しさとは、人間中心の、あるいは各人各様の、心理学的な「ご都合主義」でしかない。

絶え間なく生み出されるつづける無数の「ご都合」のうち、メジャーなポジションを獲得した言説が、「道徳」とか「倫理」と呼ばれる。

空は青く、山は緑、川は澄んでいる。太陽は照り、雨は降り、風は吹き、大地は揺れ、生き物は不快に抗しつづける。

それが自然の摂理なのだ。

人間以外のあらゆる生き物は、その摂理に準じて、文句も言わず、移動し、餌を喰み、休息し、闘争し、避難し、交接し、子孫を残し、あっさりと死んでいく。

この摂理に対して「考える」という行為をもって徹底抗戦を仕掛けている唯一の生き物、それが人間である。

身も蓋もない「空間世界」を、生の実感や意味が感じられる「環世界」として体験・解釈できるように「豊かな翻訳」を与えてくれるシステムーそれが「心」という仕組みだ。

0/1の羅列でしかない機械語を、素人でも直感的に理解できる「言葉」に置き換えてくれるプログラミングソフトに似ている。

「心」によって縦横に紡ぎ出される「意味」とは、無慈悲で機械論的な「生の営み」に豊かな実感と効力感を与えるべく進化の過程で生み出された、ヴァーチャルな「発明品」なのだ。

⚫︎認知革命―意味や物語を自由に生成する能力の獲得

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』(河出書房新社、二〇一六)によれば、約七万年前に僕ら人類の認知的能力には革命的な変化(認知革命)が起こったとされる。

この革命によって、人類は「虚構、すなわち想像上の架空の事物について言葉で語り、それを事実であるかのように共有できる能力」を獲得した。

目の前の出来事や現象に対して、融通無碍に「意味」や「物語」を生成し、「腑に落とす」能力である。

ただし、個々人の能力なんてたかが知れている。複雑で理不尽極まりない「世界」のふるまいに意味を与えるなんて離れ業、できるもんじゃない。

しかし、人間は言葉による対話を通じて、それぞれの解釈を交換し合うことができる。歴史を通じて、「ああでもない、こうでもない」と無数の交換が繰り返され、分類され、比較され、集約され、抽象化されといったことが連綿と積み重ねられた末の、全人類的な知恵の集積、それが「文化」である。

宗教、伝統・土着の知恵やしきたり、イデオロギー、科学、人文知、テクノロジー、アート、そしてさまざまなルールといったものである。さまざまな要素が複雑に入り組み、混ざり合い、分岐を繰り返し、多様な様相を呈する各種文化が形成された。

それは今なお、それこそ生き物のように変異を繰り返している。

⚫︎誰もが独自の「解釈の型」を持つ

誰の脳内にも、そんな文化の影響を受けた意味・解釈の基本ソフトが備わっている。その上に、各自の体験やニーズに応じて、必要なアプリが独自の組み合わせで追加インストールされ、カスタマイズが施される。

そうやって誰もが、自分なりの「常識という名の色眼鏡」を獲得する。

複雑怪奇なこの世界を生き延びるために、理不尽で圧倒的なパワーに抗するために、欠かすことのできない「解釈の型」を身につける。

自身の体験に、あれこれ時間をかけて思い悩むことなく「腑に落ちる」解釈を与え、身を守る上で有効な対処策をすんなりと選択できるようになる。

ケガ、病気、事件、災害、あるいは対人関係や仕事や経済上のトラブルなど、何かしら不幸な出来事に襲われる。

「なぜこんなことが起こっているのか」
「何がどう絡み合っているのか」
「なぜ自分がこんな目に遭わなきゃいけないのか」
「どうすれば解消できるのか」

ある人はそれを「神の怒り」に触れたことによる「罰」と考えるかもしれない。「悪霊の祟り」「新自由主義の弊害」「IT化の弊害」「シンギュラリティの到来」「脳内伝達物質の不均衡」「身体性の喪失」「専門家の不作為」「政治家の不作為」「少子高齢化」「コミュニティの崩壊」「親子関係の歪み」「教育システムの遅れ」「トラウマ」「認知の歪み」「低学力」「コミュニケーションや共感能力の低下」――

問題の原因、その意味をどこに求め、どんな物語を構成するかは人それぞれである。

その「物語」が、第三者にとってどれほど奇異に思えたとしても、非現実的、非科学的、自虐的、幼稚あるいは非常識で身勝手な思い込みに感じられたとしても、当の本人にとってそれは、圧倒的にリアルなのだ。

人生を通じて必死の体で獲得してきた、切実で、生き延びる上で欠かすことのできない、容易に捨て去ることはできない、命綱とも言える大切な「物語」なのだ。

安易に軽んじてよいものでは、決してないのだ。

⚫︎「解釈の型」がもたらす苦悩の悪循環

選びとった「意味」や「物語」によって、苦悩のありようも、湧き出す感情の種類も、感情が向かう相手も、助けを求める相手も、対処行動も当然変わってくる。

例えば、問題の原因が「自分にある」という「物語」を選んだまま対処不能の状態が続けば「うつ」に至る。自分を責め苛む思考ばかりが頭を巡り、誰にも助けを求められず、不快な感情に心身は削られ、生きる気力が失われていく。

問題を駆逐し、その人を守る目的で備わっているはずの「考える」システムが、却って自分を痛めつけるような「思考」を生成しつづける。

自己免疫疾患的な状態だ。

そんな人がクライアントとしてカウンセラーのもとを訪れる。二人は協働で苦悩や不快の軽減に取り組むことになる。

クライアント独自の「解釈の型」が苦悩の悪循環をもたらしていることが明らかな場合、問題を解決すべくほぼオートマティックにフル回転している「考える」というプロセスに「待った」をかけるような働きかけがなされる。

⚫︎対話というオルタナティブ

「考える」代わりに、何をするのか?

やり方はいろいろある。

最近の僕は、ただ「話す」という営みに、クライアントをお誘いする。

クライアントには「クライアント」というポジションを降り、ただの「話し手」になってもらう。

感じていることを感じたまま、言葉に置き換える。
浮かんできたことを浮かんできたまま、声にする。

カウンセラーは「カウンセラー」というポジションから降りて、ただの「聞き手」になる。

「聞き手」はできれば、二人以上が望ましい。「話し手」の話を、言葉を、声を、ただ「聞く」

「どうやって助けよう」
「歪んだ思考をいかに修正しよう」
「どんなアドバイスが有効だろう」

そんなことは考えず、議論もジャッジもせず、ただ「聞く」に徹する。しっかりと全身で、話し手の声に応答する。

「話し手」が安心して、自由に、心のおもむくままに話せる「場」と「間」を提供する。

「話し手」がひとしきり話し切り、「聞き手」は聞き切ることができたなら、両者はほんの少しのあいだ、役割を交換する。

「聞き手」の内側には、「話し手」の声に触発され浮かんできたあれこれが無数に充満している。その一部を、コメント・感想・問いという形で、「話し手」に差し出す。というより、両者が共有しているその空間に向けて、スッと放つ。

そして、ターンは再び「話し手」に戻される。

そんなやりとりが繰り返される。

これを「対話」と呼ぶ。

解決のための「対話」ではない。対話のための「対話」だ。

不合理とも思えるそんなやりとりが、「話し手=クライアント」を回復に導くことが経験的に知られている。

クライアントの経験を構成する一つ一つの事象は、本来、さまざまな意味をとりえたはずなのだ。しかし、悪循環に絡めとられてしまうと、慣れ親しんだオートマティックな「解釈の型」によって、それらは一意の「苦悩の物語」へと落とし込まれてしまう。

対話には、そんな硬直した物語を、事象と事象の結びつきを、柔らかく解き、再構成可能な状態へとゆるめてくれる作用がある。新たな意味の生成に必要な余白を与えてくれる。

対話を通じて、クライエントの「考える」機能は「新たな可能性の探索」という本来の目的を取り戻す。

⚫︎対話は本能に反する

こうした対話の場を設えることは、簡単ではない。

人間は「考える葦」である。常に「意味」や「物語」を求めようとする強い志向性を持つ生き物だ。

先行きの見えない、意味を推し量りがたい他人の悩みを聞いていると、誰しも自然と、独自の分析を施し、解釈したくなる。

「要するに」とまとめたくなる。

必死で解決策を考え、助言し、励ましたくなる。

「だからさ、こうすればいいんじゃね」と伝えたくなる。

それは条件反射的な、あるいは本能的な行為と言える。

僕らにとって、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく語りつづける他者の声に「ただ耳を傾ける」というのは、あまりに無防備で、不安や怖れを伴う行為なのだ。先の読めない不確実な世界線に、ただ心を委ねつづけていると、あやしうこそものぐるほしき気分となり、耐え難くなってくるのだ。

要は、不快になるのだ。

僕らは不快を軽減するために、なにがしか自分にとって馴染みのある「意味」や「物語」のフレームにフィットするよう、相手を誘導し、型にはめたくなる。

解釈、助言、励まし、解決策の提案... どれも利他的な、相手を救うべくなされる行為である。

しかし、それをやってしまうと「対話」は、止まる。

「話し手」を悪循環に巻き込んでいる「解釈の型」は、むしろその機能を強めてしまう。

対話主義の立場からすると、それらは、「聞き手」が楽になるための利己的な行為なのだ。対話を終わらせ、相手の声を封じようとする、自己防衛的なアクションなのだ。

対話において最も重要とされる「ただ聞く」という姿勢は、本能に反する苦しいものなのだ。

だから僕らカウンセラーは、ただ聞けるよう、不確実性に耐えれるよう、訓練を積まなければならない。

常に「ただ聞く」ことが求められるわけではない。分析や解釈や指導や助言が有効な場面もある。やらなきゃいけない場面もある。

でも「今は聞くに徹するべし」という状況に遭遇した時には、それができるよう備えておく必要がある。

いきなりやろうと思っても無理なのだ。

⚫︎おわりに|対話についてのオススメの本

近年、「対話」はブームになっているようだ。「対話」の作法や効用について教えてくれる本が数多く出版されている。

個人的にもっともオススメなのは、矢原隆行 『トム・アンデルセン〜会話哲学の軌跡』(金剛出版、二〇二二)である。

「対話」という不思議な行為、その作法、そこで起こること、その効用が、柔らかく詩的な文章で語られる。解像度の高いイメージを与えてくれる。

何度も読み返したい本である。是非ご一読を

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