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名付けられた葉

今貴方がしている行為を端的に言い当ててみよう。「文字を目で追い、自分の知る言語体系から文字群の生み出す意味や雰囲気を抽出し、それを解釈している。」つまるところ「読んでいる」のである。
好むか否かを問わず、我々は一連の行為に能うる力を当たり前の如く獲得している。その理由を「学校教育を修了したから」と一言で済ませるには難しいようにも思える。
前置きが長くなった。今私が書きたいのは、文字を読むということ、そして言葉というものについて考えたことである。熟考の果てに行き着いた場所ではないが、とにかく形に残しておくとしよう。

言の葉

日本において意思疎通を図る際に発声ないし書字にて用いられるものを我々は一般に「言葉」と呼ぶ。「言うと葉っぱに何の繋がりがあるのだ」とふと思ったため簡素にではあるが引用してみよう。引用元は『日本国語大辞典』を参照している。

(1)コトハ(言端)の義
(2)コトノハ(言葉)の義。ハ(葉)は言詞の繁く栄えることをいう
(3)コト(事)から生じた語。葉は木によって特長があるように、話すことによって人が判別できるということから
(4)コトハ(心外吐)の義
(5)コトは「語」の入声Kot で、語る意。バは「話」の別音Pa の転

(和樂web「なぜ「ことば」は「葉」という漢字を使うの?語源を紹介!」)

かつて「言」は発生した「事」と同義だったとして、発した音が現象になるいわゆる「言霊」もこれに近い発想だろう。

liafuan

現在滞在中の東ティモールにおいて、テトゥン語という言語で対話をしている。その中の"liafuan"という単語が「言葉」の訳として適切だと考える。 "lian" + "fuan"の2つの語が組み合わさっていて、こちらは「言語」と「心臓」の組み合わせだ。また"lian"には「言語」という意味合いのほかに「声」や「音」も含まれている。体系の中心になるのが言葉、単語というものだと端的に表しているように捉えられる。(私の推測に過ぎないのは留意していただきたい。)

生活の中で感じること

学校生活、寮生との共同生活を通じて感じることの一つとして、音の聞き分け、楽器の演奏、対話における汲み取りが非常に優れている点が挙げられる。すぐにギターを弾けるようになったり、英語の宿題を手伝っていてこちらの発音通りに表記するが故にLとRが反対になったり(これは私が悪いのだが)している。彼らが言葉を「音の心臓」と捉えていると私が思うのは、端々にこういった聴覚優位を匂わせる出来事があるからである。

練習期間2週間で讃美歌8曲を弾き上げた面々。
元から弾けた子(中央)以外は運指も怪しかった。


一方で視覚的な力は弱いという話も多く聞く。距離感が掴めずに事故を起こしたり色のグラデーション的な価値観は見受けられなかったりする。なにより文字を読む力に乏しい。中学1年生ですら問題文を正確に読み取れないか読むための集中力に欠ける。

テスト中の光景。先生は平然と問題を解説するし、子供は音読をしないと理解ができないため、平時と同じくらいの音量

国語科教員経験者として

そもそも教育システムの欠陥が著しいこともあり、この結論を出すのが尚早であることには違いない。もし今後東ティモールの学校教育がより拡充され、言語教育に重点が置かれていった場合、今と異なる印象を受ける可能性は大いにある。そこまではいかずとも、これからさらに過ごしていく中で尚のこと穿って見ていけることだろう。
だからこそ日本語の優位性(表意文字の漢字を使うことによる語義の推測)を手に入れるための訓練が着実になされている日本の学校は相当な期間を経て洗練されたのだなと感激にも似た思いを抱いている。
反面、今自分が苦しんでいるように感じるのは戦後間もない時期に教育機関で尽力してきた全ての人が通った道なのだと思うと、少しばかり前を向ける気がする。

せいいっぱい緑をかがやかせて

新川和江氏の詩の一つを今回のタイトルに借用している。「人間」という生き物の集合体と社会を木に換喩し、その葉一枚ずつを一人一人になぞらえて詠んでいる詩である。
浅学ながら考え続けて目の前のことをどうにかして乗り越えようとしているのだが、彼らの"liafuan"と我々の「言葉」は違うのだ。
木が違うのだから、育ち方も輝き方も散り方も異なっていい。
俺の浅はかな思い込みで彼らを否定する前に、その特長から何ができるかを考えていけるよう、今一度己を省みてみよう。

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