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アメリカンサクセスストーリー オークリー

私は2004年から鯖江の偏光レンズの会社に入って、レンズ関連の仕事をする様になりました。
日本の95%以上のメガネを作る福井 鯖江で勤務するようになりました。

家は奈良なので、毎週、奈良と鯖江を往復する生活を2004年から続けています。
2018年に退職しましたが、友人や仕事の関連が鯖江に多いので、
退職しても、そのまま同じように鯖江と奈良を往復しています。

2007年に私にとっては衝撃的な新聞記事が掲載されていました。

オークリーは
2007年11月にレイバンなどを傘下に抱える世界最大の眼鏡メーカー
Luxottica Group(ルクソティカ・グループ)に
21億ドルでオークリー社を売却とありました。

あの個性的なオークリーがルックスオッティカの傘下に入って、
その特徴を生かし切れるのか?とふと疑問に思いましたが、
ルクソティカはオークリーの特徴を生かさないと、
オークリーは死んでしまいますね、まあ、大丈夫でしょう。

ジム・シェナンドー

ウキペディア等で見ると
OAKLEY (オークリー)は
1975年に創業者であるジム・ジェナード氏が
モトクロス、BMX用のハンドグリップメーカーとして、
自分でグリップを作り、
アメリカ・カリフォルニア州の自分のガレージで販売し始めたのが、
OAKLEY(オークリー)の始まりです。
当初の資金は$300だったそうです。
モトクロス用としてはもう一つだったようですが、バイクのBMX用としては爆発的に売れたようです。

グリップ


(因みにOAKLEY(オークリー)というブランド名の由来は
創業者ジム・ジェナードの飼い犬の名前です。)

機能的で滑りにくく、手にしっくりとくるグリップはよく売れました。
しかしながら、幾らレースに勝ったとしても、
グリップは表には露出しません。
グリップに名前が書いてあっても分かりません。
優勝者の写真にはハンドグリップは映らないのです。
もちろん、写真を見ても、よほどの人でないと、そのハンドグリップは何処のモノかは分かりません。

そこで、私の推測ですが、
ジム・ジェナード氏は皆からよく見える製品は何かを真剣に考えました。
答えは直ぐに出ました。
それはモトクロスで使用するゴーグルです。
レース中でも、ヘルメットについているゴーグルのベルトのロゴは
ハッキリと見えます。
製品をアピールする宣伝媒体としては最高のモノです。

1980年 オークリーはゴーグル業界に参入。
Lexanレンズを搭載したスポーツ用ゴーグルをリリースしました。
Lexanは一般的にはポリカーボネートと呼ばれ、その特徴は
衝撃に大変強い、透明度が高い、変形しにくい、
高温、低温に強い等々です。
自動車のヘッドライトカバー、機動隊の透明の盾、ガラスの代わりの建築資材等、透明度と強度の必要とする製品に多く使われています。
スポーツグラスのレンズは、今では、ほぼ全てポリカーボネートレンズです。

ゴーグルとくれば、モトクロスでの使用はもちろんですが、
スキー、スノーボードでは必需品です。
ブームになってきたスキーやスノーボードの
ゴーグルからオークリーの知名度は知れ渡る様になってきました。

ゴーグル

そのオークリーゴーグルレンズのミラー加工は福井で行われました。
(当時はオークレーと呼んでいました。)

ミラーレンズにも革命が起きていて、従来からの単層のミラーから、
今では当たり前になったマルチミラー(多層膜コートミラー)の技術が広がり始めていました。
単層のミラーと異なり、美しい奥行のあるミラーで、
可視光線の透過率も高く、見やすいのです。
多量のオークリーのゴーグルレンズにミラー加工が福井で行われ、
輸出されていました。

私の勤務するは会社では、サングラスへのミラー加工依頼で、
加工メーカーで、オークリーと生産キャパを取り合っていました。
福井の工場だけではキャパをこなせないので、
大阪や会津若松の工場に分散して外注加工をお願いしていました。

話はアチコチしますが、
このマルチミラー(レボミラー)はこれより数年前に
安達新産業から紹介を受けていました。
NASAの開発したマルチミラーでガラスレンズにコートされ、
サングラス用への応用が考えられたものです。
しかし、多層膜の為に単価が高く、
当時、加工代金だけでレンズ1枚1000円を超えるので、
サングラスには無理と判断していました。
もっと、先を見通す力があれば、高級品のサングラスブランドサングラスとして一歩先を行っていたでしょう。

サングラスでは後れを取りましたが、
このレボミラーを1987年のハワイアイアンマン大会での
レーシングサービス用として世界で初めてスイミングゴーグルに採用し、
ハワイの海にキラリとその反射光を見せたものです。
以降、水の中で使用するスイミングゴーグルでもマルチミラーが採用され、
北島選手のオリンピック平泳ぎ2連覇の時もゴールドミラーが光っていました。

さらに話は少し横道に入ります。
Revo celebrating 35 years
レボミラー(マルチミラー)が世に出て35周年を向かえます。
1982 NASAの天体物理学者で光学エンジニアのミッチ・ルダ博士は、
衛星の窓を宇宙放射線から保護するために
特別なコーティングを使用するプロジェクトに取り組み始めます。

1985 ルダ博士は、NASAが開発した保護マルチミラーコーティングを
サングラスガラスレンズに蒸着して目を保護するレンズを作り出しました。

この革命的な発明で、レボサングラスが生まれます。
当時$200を超えるサングラスは無かったので、センセーションなデビューでした。
ラスベガスのレボのブースで華々しく登場したのを覚えています。

私の見た感想ではレンズは素晴らしいでしたが、
サングラスフレームはとりあえず取りそろえた感覚で、
高いわりには魅力を感じませんでした。
これは業界人の見方で、実際の売れ行きとは異なります。


アメリカン サクセス ストーリーの1つオークリー

眼鏡業界で商品開発をしてきた私は業界の栄枯盛衰をまじかで見てきました。
世界的なメガネ産業は私が業界に入った時は、ドイツ、フランス、イタリアが主要な生産国でした。
イギリスはほんの僅か特殊なメガネメーカーが残っていた程度、
アメリカはレイバンやAOがありましたが、
サングラス以外はほとんど残っていませんでした。
高級品はヨーロッパから、安価なモノは日本からでした。

大きく見ると、私がメガネ業界に従事した時代は
高級メガネはドイツ、少しファッションなソフトなメガネはフランス、
イタリアは品質は良くないが、オシャレなメガネと言った具合でした。
サングラス製造はフランスとイタリアが中心で、
日本はアメリカのバイヤーが欧州の新作デザインを日本にサンプルとして持ち込んで、それをアレンジして生産、アメリカに輸出していました。

フレームの産地は日本が80年代にチタンフレームを開発し、
一時は世界のメガネ生産地に変貌しました。
一時ですが、世界のトップに立ちました。
その後、サングラスは台湾から中国に、
フレームは韓国、中国に生産拠点が変わりました。
メガネは簡単な様に見えますが、非常に工程の多い製品で、
メタルのメガネでは200工程を超えます。
どうしても、人件費の安い所に生産地が移っていきます。

オークリーがメガネ業界に進出したころは
日本が世界のメガネ業界をリードし始めたころでした。

1984年 オークリー アイウェア業界に参入。
「Eyeshade」及び「Frogskin」(M Frameのベースモデル)をリリース。

オークリー 世界最初の一眼サングラスレンズの開発
オークリーの最初のメガネの製造は日本で行おうとしました。

日本の金型メーカーと日本のサングラス工場で最初のサングラスフレームは製造されました。
しかし、そのサングラスに嵌めるレンズが出来てこなかったのです。

そのレンズは画期的なモノで、世界で初めて1眼のインジェクション成形で作られたレンズでした。
それまでの一眼のサングラスはフラットのシートを曲げてレンズとしていました。

当然、光学精度が異なります。
しかし、一眼のサングラスレンズとなると、大きな金型が必要となり、
当時はレンズ金型の設計、研磨技術が十分ではなかったのです。
それが理由で、一眼レンズの完成が遅れたのではと思っています。
推測ですが。
色んな金型製作に取り組みましたが、なかなか予定通りには進まないものです。

このサングラスは、後にフレードとして発売になります。
OAKLEYオークリーサングラス 1986年にBLADES。

ブレード

1989年にはリッキー・ヘンダ-ソンが愛用したサングラスとしてしられるMUMBO。
1990年には今なお根強い支持を集める人気モデル、M Frameが登場し、スポーツサングラスとして確固たる地位を固めます。

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アイシェードやマンボ、Mフレームの頬の逆Rのレンズデザインは、
オークリーの創業者 ジム・ジャナード氏が来日、鯖江に来た時に、
私の友人T氏とレストランでの会談時に、
T氏がテーブルのナプキンに書いたレンズデザインのヒントを生かして作成したものです。

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フロッグスキンはオークリーからスポーツグラスではなく、
一般の人が使用するサングラスの提案を求められました。
大手眼鏡商社のS氏がイタリアのベルサーチのサングラスと
レイバンのウェイファーラーを参考にして、
アレンジしたところから出来たサングラスです。
S氏の提案が採用されて大ヒットとなりました。
当時、大阪と鯖江では何型も同じ型で大量に生産されていました。

オークリーフロッグスキン

2006年オークリー社がアメリカのアイウェアメーカーOliver Peoplesを買収。
これも衝撃でした。
スポーツグラスのオークリーが「スタイリッシュビンテージ」と呼ばれるスタイルで人気のOLIVER PEOPLESとは全く異なる性格のメガネだったからです。
オークリーは時計や、アパレル、スニーカー等、トータルでのオークリーを目指し始めていましたから、その一つかなと勝手に理解していました。

その翌年にはまたまた衝撃な事件で、
2007年オークレー社はイタリアのアイウェアメーカールックスオティカ・グループ(Luxottica Group S.p.A)に買収され子会社となる。

私はオリバーピープルに商品提供していた会社に勤務していたことがあったので、
その立ち上がりから知っていましたから驚きでした。

元々のはじまりは、日本でのメガネ展示会で出品した製品を
オリバーピープルズとルクソティカの両社に気に入っていただき、
両社からプロポーズを受けていたからです。
ルクソティカは当時提携を進めていたアルマーニブランドのメガネに
この展示会のメガネをヒントに考えていたようです。
結果的には会社はオリバーピープルズと取引を始め、
もう一つのアメリカンサクセスストーリーのお手伝いをしたことになりました。


あのジム・ジャナード氏(オークリー創業者)は、次は何をするのだろう?
と疑問を持ちました。
アメリカンサクセスストーリーとしては、成功した会社を売って、
幽遊自適の生活が私のイメージでした。

しかし、あれだけアグレッシブに活躍した人が、
簡単にR&Dのライフスタイルを止めるとは思いませんでした。

その後、検索をすると、こんな内容の記事が出てきました。
同氏は2007年11月にオークリーを21億ドルで売却し、
RED Digital Cinemaを創設した。
彼はカメラ収集家としても知られている。

ジャナード本人は「余生はデジタルカメラビジネスに集中する」と発言している。
これまでサイドビジネスだったREDの研究開発とビジネスに集中すると公言している。
技術とデザイン、その双方を高い次元で集約したオークリーで培ってきた精神や考え方が、RED Digital Cinemaへそのまま受け継がれて行くことは明白です。
これからもユーザーに高次元での期待感を満足させるに違いないのだ。

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REDは、最初のカメラRED ONEで映画業界を変えた。
当時、デジタルシネマカメラの機能は十分でないうえ、非常に高価だった。
そこでJannard氏は、映画製作者コミュニティ向けに手頃な価格のシネマカメラを開発することを決意し、2007年にリリースされたRED ONEは、Redcode RAWで最大4K 60fpsで記録することができた。
このスペックは今日でも通用する。 RED ONEの破壊力はすさまじく、より手頃な価格で高品質なデジタルシネマカメラにもラインアップを広げた。
今では手頃な価格のデジタルシネマカメラが登場し、一つの分野を広げた。

その後、高性能カメラの付いたスマホHYDROGENに取り組んだが、
氏は今年70歳になり、いくつかの健康上の問題が発生したのでリタイアすることにした。
HYDROGENプロジェクトは中止する。このプロジェクトに関わった多くの素晴らしい人々と長年働いてきたことを誇りに思う。

と彼のR&Dの人生を締めくくっている。

$300でモトクロスグリップから初めて、世界一のスポーツグラスブランドを築き上げ、21億ドルでオークリーを売却、
手頃な価格の高性能デジタルシネマカメラを開発し、その市場を作り出し、
最後に手掛けたのは、高性能デジタルカメラ付きスマホでした。

色々と作ってきて、最後にはこれさえあれば良いと言うグッズにたどり着いた気がします。

HYDROGENスマホ2

ジム・ジャナード氏は、素晴らしい開発者魂の人です。
同じ時代を同じ業界を過ごしてきた私にとって彼の生きざまは、
素晴らしいとしか言えません。
商品を通じてしか分かりませんが、
思い切り、自分の好きな事に挑戦したように思えます。
幸せな人生を過ごされたのでしょう。
余生は、ゆっくりと思い出の中でお過ごしください。
お疲れ様でした。

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