引き出し

引き出しっていうのは非常に便利だ。
収納としての機能はもちろん、よく使うものは、半自動的に、開けてすぐのところに集まる。よってすぐ、目に止まる。

頭の中、記憶。大きな棚のようなものだと感じることがある。その棚自体に名前がついていて、その棚にある引き出しがそれぞれ、その棚の名前にまつわる記憶ばかりが収納されている。嫌なこと、きついこととかは思い出したくないから引き出しから出すことはない。よって、自然と目につくことはない。

その棚を廃棄するとき、廃棄せざるを得ないとき、まず引き出しを空にする。まず目につくのは何か。しょっちゅう引き出しから引っ張り出していた記憶、余韻。ふとした瞬間に重なって見える記憶や幻想。引き出しから何度も出しては見直している思い出。宝石のように輝き、シャボン玉のように儚い記憶。だからこそ、躊躇する。その奥にどれだけの汚物が隠されていようと、手前に詰め込まれた宝石によって戸惑う。その汚物が宝石を侵食している最中には、その棚ごと侵食されたように感じ破棄したいと思うものの、いざそうとなると、この宝石を捨てるのか、とためらってしまう。自分の甘さ故に起こる不覚。その不覚によって引き起こされる数多の不幸。これは汚物によるものか?宝石を破棄した自分の責任か?棚を捨てるための料金か?捨てられた棚はどこへ行くんだろうか。捨てられた棚は付喪神になるのだろうか。付喪神になるのだとしたら、かなり恨まれるんだろうな。それとも、棚ではなく、棚に格納されている複数の引き出しが自分のことを恨むのか。

100の汚物から1の宝石を守り抜く生き方はできない。10の宝石を脅かす10の汚物を徹底的に排除するような生き方や思考をしてきた。欲張りすぎなのか。そもそもこの両者の違いは何か。

残り香、片鱗、忘れ物。そのどれでも違うようで、そのどれでも当てはまる。

それは単体か、複数か。

規模は大きいのか小さいのか。

敵か味方か。


話にならない。棚ごと捨てる。上等だ。捨てた後もこびり付くなら叩いて潰す。いつまでも下手に出てたら調子に乗りやがる。粋がるなよ。己の限界を感じ、無力さを痛感しろ。また来世でな。クソどもが。