体験デザイン研究所・風の谷第1回イベント「原生自然と人」7/18 19時~ ことカフェ(西荻窪)口上4「屋上に上がって同じ世界に入った者が手を携えて地上に降り立つ」 by宮台真司

80年代半ばまでは、どんな団地も、校舎も、社屋も、伴がかかっていなくて、屋上に昇れた。屋上に昇ると、今と違って高層建物がなかったので、地平線まで見晴るかせて、ぼわーっとした街頭音を聴けた。そこに行けば、地上を生き辛い「同類」を見付けられた。

僕は、中学高校紛争後の学校が生きづらかったから、体育館の壁面にある非常階段をいちばん上階の踊り場まで昇り、弁当を食べたり、本を読んだりした。同じ場所に時折訪れるNと親友になって、一緒にアマチュア無線技士の免許を取り、そこで無線交信をした。

小学校は転校だらけ。京都を中心に6つの学校に行ったが、どこも団地住まいだった。万年転校生は生きづらい。団地でも学校でも屋上に佇んだ。教室は学習する場所・廊下は通行する場所・校庭は運動する場所。そこでの僕は学習・通行・運動する子になってしまう。

「規則は規則、守れ」。言葉で語られた法に損得勘定で従う「言葉・法・損得」の時空。でも、屋上は機能が指定されない空白の場所。何をするでもない子になれた。そこは「言外・法外・損得外」の時空。短く「法の時空=社会」対「法外の時空=社会外」。後者を「アジール」とも言う。

アジールとは「異界」。異界論*に詳しく書いた。京都にいた僕の周りに異界が散在した。年に幾度も「祝祭の時空」が訪れた。駅南に「ヤクザの時空」があってヤクザの子に連れて行かれた。山沿いに住んだから逢魔が時には人ならざる者の気配が満ちた「異形の時空」が訪れた。

*宮台真司の異界論

転校生というだけでなく、じっとしていられない子だった。授業中に立ち歩き、指されてないのに黒板に答えを書いた。転校先で特殊学級から来たの? と訊かれた。それでも男子向けにドッジ、女子向けにゴム跳びに習熟し、次の学期には学級委員になった。「なりすまし」。

僕にとって、祝祭の時空・ヤクザの時空・異形の時空は大切だった。同じ意味で、屋上・非常階段・廃工場も大切で、そこで読む本は空想科学小説(今のSF)だった。そう。「法の時空=社会」がつまらなくて仕方なかった。つまらないから「法外の時空=異界」に居場所を求めた。

小六の九月に東京の三鷹市に転校した。祝祭の時空・ヤクザの時空・異形の時空は跡形ない。それでも僕には屋上と非常階段があった。最後の学期に学級委員になったが、屋上では僕の同類を見付けた。毎日がつまらなくて仕方ない同類は、わくわくさせる子だらけだった。

当時の京都と違って東京は、ハレとケの交替もなく、東西南北の匂いの違いもない、時間的にも空間的にもフラットにのっぺりとした都会だったが、局所的な異界は屋上・非常階段の他にもあった。三鷹市民センター(当時)のゲーセンや、自由に入れた国立天文台や…。

80年代半ばからナンパ師として全国行脚した時、全国的に同時展開した新住民化を目撃した。バブル景気を背景に人口学的流動性が増し、土地に縁なき勤め人家族が急増し、お店屋さんやお百姓さんの自営業家族が追い遣られた。大保店舗規制法緩和が象徴的だった。

僕にとって当たり前の作法が消えた。日没後も外遊びしてヨソんちで夕食を食べたり入浴したりする子も消えた。80年代半ばまで火災予防条例があっても通報されなかった焚火や花火の横撃ちも通報されるようになる。公園遊具もエロ自販機も組事務所も撤去・追放された。

80年代の新住民化で郊外や地方に居場所をなくした中高生が、90年代前半に渋谷のストリートを「アジール」として集まるのを見て、僕は「屋上化」戦略だと書いた。改造四駆に乗るチーマーや、ルーズソックスと制服を戦闘服とするコギャルに親近感を抱き、調べ始めもした。

90年代半ば、中高生たちがストリートに地べた座りした。この「地上70cmの視座」も、機能的に囲い込まれた時空の、外に出ようとする「屋上化」戦略だと書いた。上京するのも大変な青森市や那覇市では、テレクラやQ2で出会える「東京の人」との逢瀬が「屋上化」戦略だった*。

*宮台真司 どうしてあなたはつまらないのか?

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僕は小中を通じて屋上に佇んだ。中3年の時、新宿文化地下「アンダーグラウンド蠍座」で足立正生脚本・若松孝二監督『ゆけゆけ2度目の処女』(1969)を見た。悲劇を経験して屋上にしか居場所がなくなった少女と少年。見晴るかす地平線。高階過ぎてボンヤリ未規定な街頭音。

屋上だけが「ここではないどこかに行けそう」。そこは「法外の時空」つまり「社会の外」。しかし…。地上への扉を管理人がロックした夜中の屋上は「どこかに行けそうで、どこにも行けない」密室。惨劇を経た薄明の中で、「僕、出かける」と呟いて少年が少女を追って飛び降りる。

71年(中1)から続いた中高紛争が73年(中3)で一段落後、学園全体を「蝕」が覆う。「どこかに行けそうで、どこにも行けない」。映画のモチーフが痛かった。いつまでも屋上にいる訳にいかない。でもどう地上に降りる? 分からなかった僕らは「やなやつごっこ」に勤しんだ。

葉山でナンパしてヨットに乗船した。高畑勲監督・宮崎駿画面設計『太陽の王子ホルスの大冒険』上映会・セル画展をした。宮崎駿インタビューも敢行した。『サブカル神話解体』でいう原新人類=原オタク世代*。どこにも行けないならと、「ここ」の過剰な読み替えゲームへ。

*宮台真司『サブカルチャー神話解体』1993年

だが学園闘争と同じく意外な結果に帰結した。2学年下から対人能力を軸にナンパ系とオタク系に分離した。風俗街の市役所通り(職安通り)がパルコ開店で「公園通り」になり、ファサードが一新。風俗街がオシャレだと!! だが読み替えのシャレはガチのオシャレ強迫となる。

シャレからオシャレへ。敢えてからマジガチへ。ネタからベタへ。「わくわく」から「つまらない」へ。77年から80年代半ばまでに流れが急進、中森明夫が83年「おたく」を造語した。つまらな過ぎて、僕は同世代と共に沢木耕太郎『深夜特急』を読んでバックパッカーになる。

だが東京が冷えた90年代後半バンコクも冷えた*。「どこかに行けそうで、どこにも行けない」。中3時代、若松・足立は「この人だけが僕らを分かってくれる」神様だったが、冷えたバンコクで思い返せば彼らの言う通りだった。中東から強制送還された足立の裁判を傍聴した。

*宮台真司『正義から享楽へ』2016年

その後、若松・足立両氏と親しくなり、足立氏に原案を提供したり、若松作品に出演したり、若松氏逝去に際しては朝日新聞に追悼文を書きもした。その間、「屋上で"同じ世界"に入れた者が、一緒に地上に降り立つ」とはどういうことかを考え続け、一つの結論に達した。

数多の経験と学問を総動員した思考で、「社会という荒野を仲間と生きる」*ための「体験デザイン研究所・風の谷」の発足に、キリスト者・阪田晃一氏と共に漕ぎ着けた。共同身体性ベースの絆を「屋上で」結んだ者が、子供らの体験デザインを通して「地上で」働きかける営みである。

*宮台真司『社会という荒野を生きる』2015年

機が熟するのを待ってもいた。機が熟した。2020年から3年弱の「コロナ禍」の初期にはリモート化による対面欠如を嘆く若者が多数派だったのが、末期には対面化を嫌がってリモート継続を望む若者が多数化した。と同時に、僕の歌謡曲講義に受講者が殺到し始めた。

「つまらなさ」を漠然と感じる段階から「より一層のつまらなさ」への急降下を感じる段階に変化したからだ。人は量より変化に反応する。社会科学の共通認識だ。部屋の匂いへの感度が対数関数的に鈍磨するウェーバー・フェヒナー則に類する。だから崩壊を加速させよ。*

*宮台真司『崩壊を加速させよ』2021年

歌謡曲講義への殺到に類する動きが2024年春の宮藤官九郎脚本の連続ドラマ『不適切にもほどがある!』通称「ふてほど」の人気。1986年と比べた2024年の「過剰なつまらなさ=享楽欠如」を浮き彫りにする。僕の言葉では「恐いけど恐くない」から「恐いからしない」への頽落*。

*阪田晃一の口上1

*石野真子「狼なんか怖くない」1978年(阿久悠作詞)

*ドラマシリーズ『不適切にもほどがある!』

数理哲学からプラグマティストに転じた(宮台に似る!)ローティが92年に予測した通り、「享楽を欠いた正義」が「正義を欠いた享楽」へのバックラッシュを生んだ。トランプ主義者のアンチPC(政治的正しさ)を思えば半ばに過ぎる。正義が享楽を犠牲にすれば不正義に手を貸す。

同時にローティが予測しなかった動向も重なる。「享楽する身体」を「享楽できない身体」が妬み嫉んでディスる大規模な動きだ*。「享楽する身体」は、共同身体性ベースの絆を「屋上で」結んだ経験のある「育ちが良い者」が専ら実装する。恋愛ワークショップでは余りに如実な傾向だ。

*宮台真司『正義から享楽へ』2016年

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僕には、阪田さんと森本さんと一緒にカヤックを漕いだ「能登の海」と、ブヨに噛まれまくりながらキャンプした「突如隆起した砂浜」が、「屋上=アジール」だと思えた。それは、「週末のサウナ=リゾート体験」ならぬ、被災地という特異な時空であるがゆえの「屋上」である。

のっぺりとしたフラットな「終わりなき日常」*に対して結界を張らなければ、非日常に見える体験は、ブラックな日常を生きさせる「週末のサウナ」に頽落する。「森のようちえん」も「森のキャンプ」も「海のカヤック」も、結界を張る営みを欠けば直ちにリゾート体験に堕落する。

*宮台真司『終わりなき日常を生きろ』1995年

「森のキャンプ」では若者たちの「いい体験でした」という感想を糾弾してきた。何を聞いていたのだと。自分たちの「つまらない日常」に̶そこを生きる自らの心身に̶何が欠けているのかに気付くための、キャンプ実践なのだと。その気付きは、結界を張った者にしかできない。

80年代の新住民化(学問では法化社会化)で中高生らが東京や大阪や博多のストリートに押し出されて来た90年代前半から、「結界を張る」というモチーフがテレビシリーズ「ナイトヘッド」(1992年)や「高校教師」(1993年)に登場、「仮面ライダークウガ」2000年に継承された。

*ドラマシリーズ『ナイトヘッド』1992年

*ドラマシリーズ『高校教師』1993年

*ドラツシリーズ『仮面ライダークウガ』2000年

これらには、社会(法生活)の外として定義された性愛の時空を含めて「結界を張った異界」から振り返る時、急速に異界を消去しつつある社会が「どこかおかしい」との直観が溢れていた。宮台システム論いわく、⟨社会⟩は「社会(法)」と「社会の外(法外)」を含んで初めて人を生きさせる。

「社会の外」が消された郊外や地方から昼までに高速バスで渋谷に来て、援交で一稼ぎしてストリートのクラブでオールする(深夜を皆で過ごす)営みが拡がった90年代半ばには、「毎日がつまらない」という感覚が蔓延していた。それと昨今のつまらなさとはどこが違うのか。

女子高校生たちをフィーチャした短編動画「転校生」(2012年)と「そうして私たちはプールに金魚を」(2017年)を見るといい*。そこにはたとえ幻であれエヴァキュエーション(避難所)としての「ここではないどこか」を夢想する機会さえ奪われた若い人たちの絶望が描かれている。

*短編映画「転校生」2012

*短編映画「そうして私たちはプールに金魚を」2017年

私たちはこの絶望に応えようではないか。共同身体性ベースで一緒に「屋上」にあがって「同じ世界」に入って絆を結び、手を携えて「地上」に降り立ち、まず「地上」のおかしさを共有した上で、次に「地上」を仲間と生きて力を失わず、更に手元から「地上」を変えるのである。

宮台真司(社会学者)
阪田晃一(キャンプディレクター)

イベントのご案内
2024年7月18日開催【シリーズ|原生自然と人】能登半島の隆起した海をカヤックで漕ぐ〜語り手は森本崇資(キャンプディレクター)、ホストは宮台真司・阪田晃一


体験デザイン研究所風の谷


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