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Predatory Journalの論文を査読してみた

Predetory Journalという言葉をご存知だろうか。科学的な論文誌を標榜しつつ、その実はろくな査読を行わず金儲けを目的としたインチキなジャーナルのことである。そんな論文誌から査読依頼が来たので、その顛末を残しておく。

そもそも、「査読」に馴染みのない方のために簡単にこの制度を説明しておきたい。研究者は研究するのが仕事だが、研究していてなにか新しい知見を得たら、その研究成果を論文にまとめて出版して初めて業績となる。まず、論文を書いたら、それを適切な論文誌に投稿する。同時に「プレプリントサーバ」にも投稿することが多いのだが、ここでは詳細は立ち入らない。投稿された論文は、エディタと呼ばれる人が管理する。エディタは論文の内容を見て、数名の査読者を選定して査読を依頼する。筆者の分野では「論文投稿者の名前はオープン、査読者は匿名」という方式を採用することが多いが「投稿者も査読者も匿名」というダブルブラインド方式が採用される場合もある。査読者は、その論文が新しい成果を含んでいるか、表現は適切か、結論は妥当であるか等をチェックし、必要に応じて再提出を求める。論文投稿者は査読レポートに対して論文を修正したり、あるいは納得できなければ反論したりする。そのプロセスをなんどか繰り返し、最終的に「エディタ」が出版に問題ないと判断したら掲載される。

よく誤解されているのだが、掲載可否の最終判断をするのはエディタである。もちろんほとんどの場合は査読者がOKを出したら掲載だが、査読者間で判断が分かれたりした場合の最終判断はエディタが行う。したがって、エディタもその論文を読んで科学的な価値を判断できなければならず、普通は研究者が行う。

さて、査読者も研究者であり、一般に査読は無償で行う。論文の投稿料も無料であるか、有料であっても安価であることが多い。しかし、論文を「読む」のにはお金がかかる。大学や研究所では、読みたい雑誌について機関ごとに年間契約をしていることが多く、その機関に所属している人は、契約している雑誌はオンラインで読み放題になる。一般にその購読料は高額であり、大学の予算を圧迫したりする。このあたりのビジネスモデルについても様々な問題が指摘されているが、ここでは触れない。学術論文誌はこのような「論文の投稿は無料ないし安価、購読は有料で高額」というシステムをとることが多いが、最近は「高額な掲載料を投稿者が負担し、そのかわりオンラインで誰でも読めるようにする」という形式も増えてきた。この形式をオープンアクセスと呼び、オープンアクセスのみを採用する論文誌も増えている。

さて、(しつこいけど分野によるが)基本的に査読論文が研究者の業績としてカウントされる。「業績を増やせ」というのは、「査読論文を増やせ」ということにほぼ等しい。さて、「業績を増やせ」という強いプレッシャーがかかった時、なるべく楽に査読論文を増やしたい、と思う人が出てくるのは自然の摂理である。そこでPredatory Journalの出番である。

Predatory Journalは「査読付き論文誌」を標榜するが、まともな査読などほとんどしない。研究者が論文を投稿すると、ザルな査読をして論文掲載を決定する。多くの場合Predatory Journalはオープンアクセスのみのオンラインジャーナルの形態を取っており、論文を掲載するには投稿者がお金を支払う必要がある。しかし、オープンアクセスに支払うお金は研究予算から支払うことが許されているため、多くの研究者は研究予算から支払う。というわけで、Predatory Journalはお金が儲かる、研究者は業績が増えるし自分の懐は痛まない、というWin-Winの共生関係が構築される。predatorは捕食者という意味である(「エイリアン vs. プレデター」のプレデターである)。Predetory Journalという字面からは弱者を搾取しているかのような印象があり、「ハゲタカジャーナル」などと訳されたりもするが、どちらかといえば 先述のように研究者と共生関係にあるので「インチキジャーナル」と訳すほうがしっくりくる。「Predatory Journal」という言葉は、Jeffrey Beallという人が「疑わしいジャーナルリスト (Beall's List of Predatory Journals)」を作ったことで有名になった。なお、Beall's氏はこのリストに挙げられた出版社から激しい攻撃を受け、現在はこのリストは削除されている。ここまでが長い前フリであった。

研究者をやっていると、定期的に論文誌の査読依頼が届く。査読はボランティアだが、当然自分の論文もボランティアで査読してもらっているので、よほど分野が外れていない限り引き受けることにしている。しかし、ある日届いた査読依頼を見てちょっとひっかかった。「査読可能かどうか一週間以内に返事をしろ」というのは良いとして、出版社名を知らない。そして、メールにエディタの名前がない。編集部がエディタの代理でメールを出すこともあるが、その場合でも「誰がこの論文をハンドルしているか」を明記するのが普通である。念の為、出版社名でググって見たら、見事にBeall's Listに入っている。しかし、論文のabstractを見る限りまともそうだったし、専門も近かったので引き受ける旨を返事した。

で、「査読します」というメールを書いたのだが、返事がこない。普通、2〜3営業日以内には論文の本体へのアクセス方法や、査読の手順などを記したメールが届くものである。おかしいな、と思っていたら、一週間後に正式な査読依頼が届いた。この時点で「かなり怪しいな」と思ったが、論文が一見まともだったので査読をすることにした。

さて、論文の査読をしてみたはよいが、形は論文になっているものの、中身は「やってみたらこうなった」としか書いてない。また、シミュレーションで得られた結果だけからは主張できないようなことを結論していた。なので「この結果からこの結論を導くのは無理がある。追加計算をしろ。」みたいなことを書いた。また、論文表記に問題があったので、それについても指摘した。それらを査読レポートとしてまとめて編集部に送った。

一ヶ月ほどして、編集部から再査読依頼が届いたのだが、その依頼文を見て目を疑った。「返事を一週間以内に送れ」と書いているのはまだ良い。普通の論文はLetterで無い限り査読期限は一ヶ月くらいだが、それは良いとしよう。それに続けて、なんと「一週間以内に返事がなかったらアクセプトとみなし、論文を出版する」と書いてあった。これは、査読などに詳しくない人であっても非常識であることがわかるかと思う。「査読付き論文」を標榜するのだから、最終的に査読された論文しか掲載してはいけないはずなのである。査読者も仕事があるので、出張などでしばらく返事ができないことくらいある。そういう場合はエディタはなんども督促し、それでもダメだったら別の査読者を探し、ちゃんと査読を行った論文だけを掲載することになる。それを「返事がなければアクセプトする」とは。

さらに、研究者からの返事もひどかった。一般に査読レポートはいくつかの指摘から構成される。査読者にもよるが、だいたい番号をつけてコメントをするので、投稿者はそれぞれのコメント番号に対して返事を書き、「査読者のコメントへの回答漏れ」がないようにする。今回、僕は大きなコメントを二つ書いた。なので投稿者もそれぞれに返事を書いてきたのだが、なんとそれがコピペだった。当たり前だが僕は二つの異なるコメントを書いたのである。それにまったく同じ回答をぶら下げてくるとは。明らかに著者もまともに研究をする気などなく、論文さえ通れば良いと思っているのであろう。

こんな雑誌や研究者にこれ以上関わりたくないが、このまま一週間返事をしなければ僕がこの論文を通したことになってしまう。慌てて「著者は真面目に査読レポートにコメントをしていない。これは科学論文として認められず、掲載に同意できない」と書いて送った。その後、音沙汰がなかったのだが、しばらくしてからふと気になって論文タイトルでググったら、その論文は出版されていた。「なるほどこれがPredatory Journalか」と納得した次第である。おそらく、最初に査読者候補複数名に同時に依頼を出したのだろう。そして、「本命」から一週間返事がなかったので、僕に査読を依頼したのだろう。しかし、僕が空気を読まずにまともに査読をしたので、向こうとしてはいろいろアテが外れた格好になったようだ。その後、その論文誌から「エディタにならないか」とか「他の査読者候補を5名推薦してくれ」とかメールが来たので、SPAMフィルタに登録して無視することにした。

査読システムについては巷でいろいろ言われており、問題がないとは言わない。しかし僕は、査読システムは必要だと思っている。「真に有用な知見ならインターネットの海に流してあとは検索エンジンが拾うに任せれば良い」という考えはナイーブにすぎるように思う。ソフトウェア開発でも、レビューをするでしょう?査読をすることである程度の品質を担保し、また自分も査読者の気持ちにたって論文を書くようになることで、全体としての知が発展していくと僕は信じている

しかし、昨今は変な成果主義により、業績を増やせというプレッシャーがある。しかし、よく言われるように数値評価は必ずハックされるのである。論文の内容をチェックせず、「査読付き論文を何編書いたか」とか「H指数」みたいな「つぶした」数値しかみていないと、必ずこういうことが起きる。

最初、「研究しないのに研究者になる意味はあるのか?」とも思ったのだが、よく考えればこうして「研究するフリ」をする方が、「ガチで研究する」よりも圧倒的に楽だし、「査読付き論文の数」しか評価されない組織ではそちらの方が評価されるため、そういう人が多数出てくるのは理解できる。理解はできたのだが、とても悲しい気持ちになった。もうこういう雑誌の査読をすることはないと思うが、この経験をここに埋葬しておこうと思う。

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