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引用RTの暴力性

なんか「Twitterの引用RTが嫌いだ」という意見を見かけて、共感するところがあったので。

Twitterというメディアにおいて、誰かのつぶやきに反応する手段はいくつかあるが、大きく分けると「発信者へのメッセージ」と「自分のフォロワーへのメッセージ」の二つにわかれる。たとえば「いいね」は、発信者へのメッセージだ。リプライやメンションも基本的にはそう。それに対して、RTは「自分のフォロワーに対してそのつぶやきを公開する」という処理で、発信者にも通知は行くが、RTをした人は自身のフォロワーの方を向いている。引用RTもそうで、これは発信者へのメッセージというよりは、発信者のメッセージを材料として自分のメッセージをフォロワーに伝える形であり、やはりフォロワーの方を向いている。

で、リプライのような「発信者へのメッセージ」で、例えばクソリプが飛んできたら直接的にイヤな気分になるわけだけど、僕は「引用RT」のような、「自分を向いていない、他の人を向いたメッセージ発信」の方がイヤだな、と思うことがある。

引用RTでは、引用者は自分を向いていない。フォロワーを向いている。で、引用者の意見の補強に使う。で、その補強は「全く同意」のような同じ向きの場合と、逆の主張を持ってきて自身の意見を補強する場合がある。僕は後者、つまり「自分とは異なる意見を引用RTすることで、自身の意見の補強をする」場合に「引用RTの暴力性」を感じる。

典型的には、こんなことがおきる。ある事例Xについて、賛成派と反対派がいるとする。この時、例えば反対派が、「賛成派のアホな意見」を引用RTして「事例Xに賛成するのはこんなアホばかり」みたいなことをいう。これは典型的な藁人形論法なのだが、怖いのは、この形の引用RTをする人は、その発言者には全く興味がないこと。その人は「事例Xに賛成するのはアホだ」と言いたいだけであり、たまたま目についた(もしくはわざわざ検索して見つけた)「アホに見える賛成派意見」の例として使っただけなので、引用された人がどう思うか、どういう文脈でなされた発言かに注意を払わない。その発言の後ろに人間がいる、という意識がない。

似たような構図は、Yahooなどのニュースサイトのコメント欄や、はてなブックマークのコメントにも現れる。彼らは、ニュースやホットエントリを見て、何か心が動く。それがポジティブに振れる場合もネガティブに振れる場合もあるけど、ネガティブに振れた時の反応の方が多く目につく。彼らはニュースになっている人や事例そのものには興味がない。自分がそのニュースに触れて「怒っているんだ」ということを表現するためにコメントをする。人気のブログに対して「こんなのをありがたがる奴は馬鹿だ」と吐き捨てていく。彼らはニュースの当事者やブログの執筆者に興味がない。というか多分、「そこに人間がいる」という意識がない。

僕は、自分に直接悪意を向けられるより(それもイヤだけど)、自分の発言を武器として別の誰かを殴る人がいて、その人が自分という人間に全く興味がない、という事象の方が怖い。

まぁこういうことをいうと、「有史以来ネットというのはそういうものだ」と言い出す人がいるんだけどさ。「雨が降るのイヤだなぁ」って言う人にたいして「雨が降るのは当然なんだから、ちゃんと傘を持ち歩け。それがイヤなら外に出るな」って言っても仕方ないと思うな。雨が降らないネットになると良いですね。

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