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可哀想は、嫌だ。

土着の文化を大切にする企業の方と話をしてきました。

相手はどっしりと?落ち着いた対応なのに、私はおどおど。なんで、堂々とできないんだろう。。と思いながら、話す。

風邪で声がガサガサでも、間違えなく声が震えているのが分かっちゃうレベル。
話してるうちに、何を言ってるか分からなくなるし、もう、、心臓剥がれそうだった。。先方のかた、すみません。

「医療のことって、宣伝しにくいよね」という得意分野なのに、なぜこんなに緊張するんだろう。悔しいっ。

久しぶりに、特殊な医療人とは違う普通の感覚に触れて、自分の中に持ってるコアな部分が固まった。

よくメディアで表現されがちな「病気」ってやっぱり可哀想、だから「助けてあげないと」みたいな部分って、やっぱり嫌いだ。「可哀想」ってところがとくに。他人事で、上から目線で許せない。

でも、「助けよう」が「支えよう」だったら、ちょっと違う。困ったときは、お互い様文化みたいで、なんかいい!って思える。

生きていれば病気にだってなるし、ケガもするし、だれかを猛烈に好きになりたいし、大事もんに恵まれたいって思う。
「生きる」にある、病気は「可哀想」なんかじゃない。生きてる過程のことなんだ。不治の病とか不慮の事故は確かにあるけど、それが「可哀想」っていう結語で終わるのは嫌だ。

私はサッカー選手になりたかったけど、12歳で運動できなくなった。でも、12歳までサッカーばっかりの人生だったから、誰にも信じてもらえなかった。

可哀想が嫌だったから、「できるけど、やる気がないフリ」を身につけようと決めた。サボってるフリで乗り越えて学生を終えてやろうと決めた。大人になると、それは笑い話だけど「可哀想」の一言がそれだけ嫌だった。その言葉は、自分よりも親を母親を傷つけていたから。

今日の話し合いは、完全に飲み込まれてしまって、全然自分のペースで話せなかったけど、次は、ちゃんと話したい。

「可哀想だから、やりましょう」じゃなくて、「困ったときに役立てるように備えましょう」を伝える活動にしましょう。って。そのために、必要なデザインを作りましょう。

って、作るのは私か…。

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