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「僕たちは世界を変えることができない、だけれど。」

”僕たちは世界を変えることができない”

この映画は、大学生4人が150万円を集めてカンボジアに小学校を建設するという物語。
この映画が放映されたのは2011年で、僕が中学生の頃。僕が世界を変えることになんて全く興味がなくて、ボールだけひたすら追っかけ回していたようなとき。

僕がこの映画を知ったのは、たまたま所属している学生団体の委員長がこの映画を原体験になったと言っていたとき、今から3年前くらい。それからひょんなことでふと思い出し、視聴するに至った。

これ、タイトルよく見たらわかるんだけど、「僕たちは世界を変えることができない。But we wanna bulid a school in Cambodia」って書いてある。ボランティアとか国際貢献とか、言葉ばかりが宙を舞う世の中だけどそれでも僕たちはやりたいことがある、という強い意志を感じる。

ストーリー自体は、本当に僕の大学のクラスの隣に座っているテニサーに入っている飲みが大好きな友達を主人公にしてもなんら遜色ないくらい、身近に感じられる物語。

実際、そう言った変哲も無い学生がカンボジアに学校建てちゃうストーリーなんですけど、僕は強烈な恥ずかしさと羨望の念と路頭に迷うような感覚を覚えた。

このまま綴るとネタバレも甚だしくなってしまうので、自分が一番好きなシーンを。

「この通り、僕は何も持っていません。
僕がどんなにあがいても世界はびくともしません。きっと何も変わりません。
愛とかボランティアとか正直僕にはわかりません。
だけど誰かのために何かをする喜びは、自分のために何かをする喜びよりも上回るときがあるんじゃないかなと思うんです。」

これは、寄付金集めも終盤に差し掛かったイベントの最後に主人公が同志たちを奮い立たせたスピーチのセリフだ。

僕は、日々世界を変えたい、社会に何かインパクトあることをしたい、と思ってNPO法人での活動をしている。だけれどそう簡単に世界を変えることはできず、絶望と諦めを常に隣に住まわせている。

そんな自分は、いい戦略を立てることとか、いかに協賛金をもぎ取るかとか、そういうことばっかり考えていた。

1年生のころの自分は、とにかく狂ったように「社会へのインパクトを残そう」ってプロジェクトのメンバーに言い続けていたのにも関わらずである。

そんな薄汚れてしまった自分に、主人公の純粋な言葉、それ以上でもそれ以下でもないことがジワリと突き刺さった。

「僕だって同じだ、愛とかボランティアとかわからない。それなのに、この違いはなんだ。僕ってめちゃくちゃダサいことばっかりしてるじゃないか。」

そう感じた。

この3年間同じ組織に在籍し続けて、頭は良くなったかもしれない。外部の人脈も増えたかもしれない。多少辛い経験もできたかもしれない。組織を背負って経営した気になれていたかもしれない。

でも、遅刻が増えたり、人との約束をすっぽかしたり、傲慢になっていった。自分のやりたいこともなくなってしまった。何より、自分の意思決定が他人からの評価というドロドロのヘドロに塗れてしまった。

僕もこんな風に、バカみたいに純粋に「世界をよくすることしたい」って言ってみたい。言える人生を歩みたい。

世界を良くするって言葉ほど、大きく見える言葉はない。
そもそも世界って何を指すのか?それって人によって違うと思う。本当にWorldwideを指す人もいれば、家族を幸せにすることが世界を変えることだと考えている人もいると思う。

どれも正解だと思うし間違いはないと思う。ただ、「世界を変える」という言葉が尊大すぎてその幻影についていくと、自分のように形骸化した志っぽい何かをただかざすだけで何がしたいのかわからない、という事態に陥ってしまうことも多々あると思う。

それくらいだったら、ハナっから世界を変えるとか言わずに、単純に「学生時代に真面目なことやっておけば就活に有利だから」「何やるかはさておき仲間と何かするのが好きだから」っていうくらいの理由で頑張る方がまだいい。

もっとバカになりたい。バカになって飛びたい。

絶望を、今目の前に広がる惨憺たる現実を、その中から一筋の希望を見出す慧眼が欲しい。

そして、頭ではやるべきだとわかっていることを即座に行動に移せるような単純な思考回路が欲しい。本質は、自分の考えている以上にシンプルだから。

自分にとっての正解を、みんなにとっての正解にする。強烈なエゴと覚悟と執念が欲しい。

そして、自分を愛し自分とともに歩んでいく勇気が欲しい。


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