「世界は思ったよりクソじゃない」

「世界は思ったよりクソじゃない」

昨日見終わった、「ペイ・フォワード」という映画にて主人公のトレヴァーが述べていたことだ。

この映画は、11歳の少年トレヴァーが「世界を変えるためにはどうしたら良いか?」という社会科の授業における問いをとく物語。
彼が思いついたのは鼠算。まず一人の人間が身の回りの三人を幸せにする。そして、それを次に渡す(=Pay Forward)するように言う。そうすると、幸せの人口は、1→3→9→27、、、と増えていく仕組み。

ネタバレになりますが、トレヴァーは作品の最後に殺されてしまう。いじめの現場に勇気を持って飛び込み、いじめられていた子を助けようとして。とても皮肉だなって思った。

「世界は思ったよりクソじゃない」なんて嘘じゃん。

胸が締め付けられる思いがした。世界はやっぱりクソなんだなって思った。作品の最後では、トレヴァーの死後、彼の家の前にたくさんの人(おそらく、Pay Forwardの恩恵を受け、そしてPay Forwardをした人)が蝋燭を持って弔うシーンが出てくる。

僕は世界ってクソだなって思う。

いくら信頼していたいと思っていても、少し心を許せば強烈なしっぺを食らうのが世界。だから、いつでも自分の敵を作らないようにしないといけない。常に用心して他者との関係を作らないといけない。裏切られてもそれはそういうもので、諦めるしかないものなんだと最近は思う。

自分のことを主張し無償に受け入れてもらえるほど世界って甘くない。
自分という存在を抹消して自分の外部に主語を持たない限り、世界に食い殺されてしまう。

自分の外部に主語を持っていた時代に共に生きた仲間となら、今も共に生きていける気がする。
でも、世界で生存することを目的に生きていた、ここ数年の自分の周りの社会では、信頼という言葉は存在しなかった。それはその範疇の中で相対的な強弱は多少なりともあるけれど、それでも全体として絶対的なものとして自分の中に刻まれている。

だから、人を好きになってはいけないし、人を信頼してはいけないんだと思う。自分の物差しを押し付けちゃいけないし、人の物差しをへし折るような真似をしてはいけない。常に殺されないように気を張って生きていないといけない。心が安らぎそうな時ほど、神経質にならなければいけない。

唯一、人を無視することだけが、安心感や心の平穏を保つことのできる手段であることにも最近気が付いた。

そうすれば、「なかなかにクソな世界」を味わえることと思う。

僕は、この「なかなかにクソな世界」のシャワーを浴び続けていて、その中から自分が脱出したいのか脱出したくないのかさえもわからなくなった。
だって、脱出した先の世界が「ガチでクソな世界」かもしれないから。自分の意思という邪魔な存在がなければ、あるいは自分の意思というもののみを社会性の中から排除すれば、この「なかなかにクソな世界」は「すばらしきこのせかい」へと変貌するだろうけど。

変わることをしたくないんじゃない。怖いだけ。

人が怖い。今自分の周りにいる人全て。

自分は弱いから、アドラーに師事してもやっぱり人から嫌われる人生を歩む力は出てこなかった。
自分の幸せも他者の幸せも感じなくなったし、感情の上下も表出するかしないかの違いで意図的にコントロールできるようになった。涙すらも。怖いくらいに。イライラすることも少なくなった。ただ、人との関係の中で磨耗してそれに自分を適応させていくことがルーティンになった。

人の対自分への認識と自己認知がずれているということを承知して、その上で弱い自分を演じているような感覚がある。そうすれば、自分が蔑まれて見下されて傷つくこともあるけど敵を作らないですむから。そして、ちょっと頑張ったら過大に評価してもらえるときもあるから。あるいは、優しいと言ってもらえるし同情されたりもするからね。僕は自分の弱さを知っていてそれを変える勇気がなくてそこに甘えて甘えて蜜を吸い続けているだけの人間だと思う。

病んでいるというよりは常にこういうメンタルだ。
人から言われることももはや響かないし、はあ?って思うことは黙殺しておけばいい。このままの人生を過ごすというか何か外部要因によって自分が変化することがあればまあいいかなと思うけど、今は何かをする勇気も力もない。

今の社会や関係を捨てても自分の人生にはなんら変化をもたらさないと思う。多少の虚無感と開放感と清々しさが残るくらいかな。

(こう言ったことを発信すること自体が自分にとっての最大の皮肉であることはいうまでもないが)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?