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句読点

 句読点、と言われて思い出す言葉がある。

 「句点が多く短く区切られた文章を書く人は短命。読点が多く長い文章を書く人は長命」

 こんなことを聞かされて、驚かない子供は少ないだろう。何年生だったのか、何の授業だったのかは覚えていない。ただ、記憶の中の自分は小学校の教室にいて、当時の担任の口から出た言葉に目を丸くしている。

 出典のある言葉なのだろうか。いまのところ、それらしいものには行き当たっていない。出典があるとしても、根拠の点ですこぶる怪しい言葉である。それでも、幼い自分を震え上がらせるのに十分な威力のある言葉であった。短命だなんて、文章の長短が寿命に関係しているなんて、とてつもなく恐ろしいことだと思った。

 このことが影響しているかもしれないし、していないかもしれないが、私は、気をつけないでいると、読点を多用した長い一文を連ねた文章を書きがちである。作文や小論文の指導を受ける中で徐々に気づいたことだ。一文に複数の事柄を詰め込みすぎだという理由で、自分が書いた形跡がなくなるほどに書き換えられた作文もある。苦い記憶だ。

 苦いと同時に、それは、文と文章を適切に区切ることの重要さに気づいた記憶でもある。思いのままの情報を、ただ詰め込んで並べればいいわけではないのだ。

 文を区切ることに意識を向けてみると、それは、とても面白いことだとわかった。句読点を適切に打つことで、単語どうしの修飾関係や意味のまとまりを明確にし、文章をわかりやすくすることができる。句読点なしで意味の通る箇所にあえて打てば、その部分を強調することができる。また、塩梅よく打たれた句読点からはリズムが生まれ、文章を心地よく読めるものである。

 自分の寿命を見通すことはできないけれども、自分で書く文章には結びまでの見通しを持って、納得できる句点を打ちたい。


(文章教室 2022年1月提出分)