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いま、ここで、の意味

お寿司屋でラーメン出せ!と騒いだらそれは騒ぐ人に問題ありだろう。でも、ネタの処理がいまいちでは…?とか酢飯が変な味する!というのはお寿司食べに行った者の感想として正当なものと信じる。
そういう方向性の感想です。



1回目。初日。
スタンディングオベーションのなか、自分は拍手することも立ち上がることもできず、いや、『せず』、座席でいじいじとした気持ちをつついていた。舞台の上で緊張感を解いた役者たちがほほえましい挨拶をしているのに、すまない気持ちでいっぱいだ。自分の気難しさに腹が立つ。でも、この行いが不当なのか否か、持ち帰って解決するまでは嘘をつきたくなく、気持ちのない拍手はしないと決めた。

飲み込めなかったのはこういうところ。
・核はなんなの?どこなの?
公式のツイートには『愛』と書いてあったけれど。簡単に愛って言うな。便利な記号として愛を使うな。少なくとも自分は、この中の愛に視線をひきつけるには、けっこう強引な誘導が必要だと思った。そういうことにしたいんだろうな~はわかっても、実感しない。
・群像劇が機能してない
これと上の不満とは関連している。キーワード『シヌキデオモイダセ』は結局ユキちゃん一人いたらよかったんじゃないの…?と思わせるのは、作品の最大にだいじなのに最低にうまく行ってないとこだとおもう。登場人物それぞれにドラマはあるけど、交差してるとこもあるけど、うーん?
・小ネタへのいらだち
さしはさまれるコメディパート(なのか?)に不快感を禁じ得ない。やってる方は諷刺や皮肉だと思っているのかもしれないけど、ただの揶揄だろうなあ。笑えないないのは実在の物事への無神経さのせいだとおもう。中でも一番ひいたのは痴漢のくだり。それはちょっと……全然だめ。

今現在その場所で、広く多くの人にみせるという行為について、その意味をもっと考えてほしいんだ。本当にそうしてほしい。今回の作品に限らず。表現とかなんとか人にみせる生業の人たち、その割に現実に無頓着で乖離していませんか?醒めたきもちになることが多いんだ。

ときめくちゃんをみにいったはずが凹んで帰ってくるのは寂しいものだよ。

2回目と3回目。楽日。
ちくちくすることはみないことにする。ライブ感に身を委ねる。キャストの技術もパッションも素晴らしいのだよ。
回を重ねたゆえか滑らかで厚い表現。役者の皮と中身が一致してみえる感覚。いいのにねえ。

Operetta『YAMA-INU』