御挨拶

 七年間(書類上は六年半)在籍した大学を、この度去ることになった。お世辞にも立派な学生・大学院生とは言えなかった僕を、丁寧に指導して下さった教職員の方々には、心から感謝している。とりわけ、僕個人の大変な不注意・不手際により多大なる御迷惑をお掛けした諸先生方、事務関係の皆様には、深いお詫びの気持ちと共に、感謝申し上げる次第である。
 当研究室に所属した四年プラス一年で、分野を横断する多様性に溢れた自由な空気の中、責任と誇りを伴った専門性の高い学びに向き合えたことは、今後の人生において代えがたい貴重な時間だったと痛感している。落語という、アカデミズムとは一見全く異なる分野(僕の中では非常に滑らかに連続しているのだが…)へと移っても、ここでの経験は必ず活きてくると確信している。
 僕がこの数年間で感じ、考え着いた「教養」の定義は「初めて出会った相手や対象について誠実に考える為の道具としての知識、およびその活用法、そしてその際の姿勢・態度」というものである。やや哲学寄りの定義かも知れないが、単なる「知識」の(スノッブ的な)言い換えとしての「教養」よりも遥かに深みのある学びを得られたと思っている。そして、この「教養」こそが、これからの時代の落語に不可欠なものだと、僕は考えている。
 大学に所属できる最後の数ヶ月、僕は、古典落語と類似した昔話について、『日本昔話大鑑』という調査資料に基づいて分析・考察を行った。その結果を詳細に論じるとかなりの紙幅を要するので割愛するが、端的にまとめれば、「古典落語と類似し、全国で受容された昔話は一定数認められ、両者の類似性は或る程度指摘できる」と言える。またその多くは、『鏡屋女房』などの巧妙な言葉遊びの噺、『寿限無』や『平林』などのアクションや音の響きが面白い感覚的な噺、『茗荷宿』や『松山鏡』などの筋立ての完成度やオチの秀逸さが際立つ噺だった。しかし、他愛の無い言葉遊びやアクション、文芸作品とも比肩し得るストーリー以外にも、笑いを伴うものとして受容された昔話は多くある。それらには、「共同体からの排除」という図式が見られるものも、少なからず見られる。そしてまた、幾つかの古典落語にも、同様の図式を、語りの中で付与し得る余地がある。
 或る意味で落語の源流とも言い得る、昔話の中でも「笑話」と分類されるものには、「馬鹿婿」、好色漢、障碍者、ケチ、動物など、「普通の人々」から外れていると捉えられる対象が題材とされたものが多く見られる。共同体から見て外的なものを拒絶することで笑いを生む、という構造は、古来からの笑いに関する哲学的考察とも相性が悪いものではない。宇井無愁の言葉を借りるなら、「笑っても敵にまわす心配のない対象」を攻撃し、排除することで、共同体はより結束力を高める。僕には、このような構造の笑い自体を根本から否定するつもりは、毛頭ない。共同体に混乱を来たす程の明らかな常識外れでも指摘するな、という方が無理な話だ。ただ、「お前は異常だ」と先に決め付けることによって相手を異常者に仕立て上げてから、「排除による団結」の笑いを実践する、という事例は、街中やテレビにおいて多々見られる。反撃されない安全圏からの一方的な攻撃による笑いに対して、「反吐が出る」というのが最も率直な気持だが、相手と同じ土俵に立ちたくないので、「視界に入らないで欲しい」というのが正直な結論だ。それでも、奴らはそこら中にいるから、困る。
 落語は、江戸と大阪という、近世の大都市で発展した、謂わば「都市の芸能」である。この看板の下では、端的に分けて二種類の笑いを提供し得ると言える。第一に、「田舎者を外的で異なるものとして吊るし上げる笑い」である。これは「ムラ」としての都市で起こるものだ。田舎に旅をした江戸っ子が振り回される『三人旅』などの噺は、このような図式に落とし込むことも可能である。それ以外にも、『元犬』などの動物の噺や、『幇間腹』のように芸人などの蔑まれた階級の人々を虐げる噺、更には『目黒のサンマ』などの殿様や侍を扱った話にも、排除・拒否の姿勢を持ち込むことが可能である。
 第二の「都市の芸能」の笑いとして、「全国から集まってきた様々な背景を持つ人々が暮らす町の日常の中で生じる、小さな衝突やハプニングから起こる笑い」がある。長屋で起こる他愛もない、明日にはみんな忘れてしまっているような、ちょっとした「事件」のようなものを描いた噺で、『締め込み』や『饅頭こわい』などは、こういった性格が色濃く出ていると思う。土台に人物同士の信頼が不可欠なこの笑いは、「優しい」ものと言えるかも知れないが、同時に、危うく、脆いものでもある。日常の中での衝突において、一人が全ての責任を負うということは少なく、大抵は何人かが同じように責められ得るものだ。個人間の価値観の違いは相対的なものであり、先ほど優勢だった側がやり返される可能性も大いにある。そして、その様子を描いている語り手や、一歩外から見ているつもりの観客にも「私もそんな失敗をしてしまうかも知れない」と身につまされるリスクがある。
 所謂「コンプライアンス」に引っかかった過激なお笑いに対抗する形で、しばしば理想として軽々しく掲げられる「誰も傷つかない笑い」というスローガンを実現する笑いなど、不可能だいうのが、僕の個人的見解だ。とは言え、排除・隔離の構造によって確保される笑いに対しては、ハーフ(として昔、いじめを受けた)という僕個人のバックグラウンドもあってか、非常に強い抵抗感がある。そこで僕が目指したいと思っているのは、「健全」というのも違うだろうが、「誰もが傷つき得るし、誰もがそれを受け容れた上で起こる笑い」である。この(都市的なものの第二の)笑いで人々が負う傷は、一方的な攻撃による笑いによる傷と正反対に、必ず癒えるものだと僕は思っている。それどころか、他者との関わり合いをそれまで以上に豊かなものにするキッカケにさえなり得るものだと信じている。メディアの発達やグローバル化、LGBTへの理解の向上などにより、多様性が加速度的に進行していくこれからの時代には、このような笑いこそが必要であると念じながら、僕は歩んで行きたいと思っている。
 そのような笑いの「背骨」として、先ほど述べた、僕の考える意味での「教養」が必須になってくると、僕は考えている。「どっぷりと浸かりつつ正確さを失わない」というバランスを保ちつつ対象に向き合う学問的姿勢は、それまでの共同体の外から来た相手も拒否せずに誠実に向き合う姿勢へと繋がっていくものではないだろうか。高座の上での実践と日常における思考との往復の中で、僕なりの答えの輪郭を少しずつでも見つけて行きたいと考えている。また、そのための助言や意見を求めに、「錦」なんて綺麗なものは飾れないかも知れないが、せめて黒紋付は着て、いつかまた大学に帰って来たいと思っている。そう心から思える七年間を送らせてもらった駒場に、改めて心から感謝したい。

春 詠

別杯乾麦酒 行路彩桜花
学道雖俊酷 須還落語家

別杯 麦酒を乾かし 行路 桜花を彩る
学道 俊酷たりと雖も 須らく還るべし 落語家


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