平成の終わりに。

 僕が大学に入ってから知り、よく聴いた音楽グループの一つが、Pizzicato Fiveだ。日本語と音楽とを美しく調和させた彼らの仕事の集大成とも言える、2000年の(実質的な)ラストアルバムに収録された明るくもメロウなナンバー『グッバイ・ベイビイ & エイメン』の終盤に、こんな歌詞がある。

Goodbye baby & amen
大好きだった20世紀

 この歌詞が初めて耳に入った時、僕は軽いショックを受けた。自分でもキザだと思うが「僕は、20世紀にちゃんと別れを告げられなかった」という後悔が生まれ、今もシコリのように心に残っている。このシコリを、僕は「平成」にちゃんと別れを告げることで取り除きたいと思っている。100%納得できる形での別れなどあり得ず、別れには何かしらの後悔がきっと残るものなのかも知れないが、これが最後のチャンスなのである。
 僕は20世紀の1992年生まれだが、僕にとっての20世紀は、人の話や、テレビやネットで「知る」ものであり、「体験した」ものではない。2001年になった瞬間に、NHKのアナウンサーが「21世紀になりました」「そうですね」「ええ」とニコニコしながら話していたのは鮮烈に覚えているが、その前の社会に関する記憶は、ほとんど残っていない。
 そんな(物心が付くのが少し遅かった)僕だが、反動からだろうか、20世紀の音楽や映画は大好きである。レイ・チャールズの動画をYouTubeで見ながら「高校生だけどこれ聴いてます」とドヤ顔で書き込みそうな衝動を押し殺していた。アステアの映画について熱く語っていたら「古い映画が好きなの?」と訊かれた。お爺さんに好きな落語家を訊かれて「圓生師匠」と答えると「昔じゃないか」と訝しまれた。「『ゴッドファーザー』は観たことがない」と言ったらクラスメイトから「嘘をつくな」と言われた。「昔の作品が好き」は、「懐古趣味者」みたいなレッテルを貼られやすいのかも知れない。しかし、レッテルがどうであれ、僕がそれらの作品(今ではもう観た『ゴッドファーザー』も含めて)が大好きなことは事実であり、最後の9年だけとは言え過ごしていたのに、それらが生まれた尊敬すべき時間である20世紀の終わりを、ちゃんと主体的に迎えられなかったことは、悔しいと感じてしまうのである。
 とは言うものの、僕の懐古趣味は、「過激」と言い得るほどには強くない。60年代のロンドンで無駄にカラフルな服を着たり、ウッドストックで大麻を吸ったりしたいとは思わない。犯罪も多くてネットも無いが痰壺はあった昭和の日本に生きるなんて真っ平御免だ。
 しかし、僕より遥かに強い懐古趣味を持つ人間もいるだろう。例えば、ウディ・アレン監督の映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)の主人公が、まさにそんなロマンチストだ。婚約者一家とパリに滞在して小説を執筆中の主人公は、「黄金時代」と憧れる1920年代のパリにタイムスリップし、フィッツジェラルドやヘミングウェイなどの夢のようなオールスターと酒を酌み交わし、文学談義に花を咲かせる。しかし、その時代に生きる女アドリアナは「"今"は退屈、19世紀末のベルエポックこそ黄金時代」と反論する。ところが、いざその時代のドガやゴーギャンに会うと、彼らは「ルネサンスに生れたかった」とボヤくのである。この普遍的な精神性を、主人公は端的にこう言い表している。

That's what the present is.
It's a little unsatisfying because life is unsatisfying.
現在ってそういうものなんだ、何だか不満なものなんだ
それは人生がそういうものだからなんだ

 僕は、この映画の魅力として、ウディ・アレン特有のユーモアに加え、映像の美しさも挙げたい。殊にオープニング映像は際立っている。作りはシンプルで、シドニー・ベシェの"Si tu vois ma mère"と共に、朝から夜までのパリの様々な光景が続けて流れるだけだ。

 しかし、これらのカットのほぼ全てには共通点がある。所謂「歴史的」なパリの建造物と、人々の暮らしが一緒に映り込んでいるのだ。元々パリが昔からの建物を遺しており意図せずそう撮れた可能性もあるが、敢えて監督の意図を読み込むなら、このオープニングを通して「積み重なってきた歴史に敬意を払いつつ、現在を生きる」という、シンプルにして重厚な生き方が示されているのではないだろうか。勘繰り過ぎかも知れないが、これこそが、上述の過去観を乗り越えるものなのではないか、と僕は考えている。
 「昔は良かった」などと思った所で、いざその時代に移ったら、それより前の時代にきっと憧れてしまうだろう。最終的には「竪穴住居に勝る快適な住環境は無い」とか言い出しかねない。前の時代に想いを馳せたり、先人の偉業に敬意を払うことは大いに素晴らしいことだが、それ以上に大切なのは、それらを貫いてきた「時間」そして「世界」に自分もまた生きているのであり、これからも生きて、作っていくのだ、ということでは無いだろうか。
 Pizzicato Fiveの音楽も、まさにそうなのかも知れない。「古き良き」音楽のサンプリングやカバーを通じて、現在の「東京」で生きる人間の姿や心を歌い上げた音楽には、懐古趣味と現実主義の融合が垣間見れる。
 やれ「ゆとり世代」だ「ずっと不景気」だ「災害ばかり」だ、「平成」という時代を否定的な言葉で灰色に塗ろうとしてくるセンパイは、沢山いると思う。しかし、まさしく「平成」こそが、僕が生まれ、育ち、学び、泣き、笑い、恋し、生きた場所であったことは、動かぬ礎である。少なくとも僕には、素晴らしい時間だった。しかし、まるで「青春」とほぼピッタリ重なるような「平成」は、幸か、不幸か、26歳の春に終わる。青春との、少し遅い、お別れの時だ。

Goodbye baby & amen
大好きだった平成

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