夕暮れの空

年に何度か、空や雲がとんでもない色に染まった夕暮れ時に遭遇する。世界の終わりのような淡くも重厚な紫色が、永遠に続くと思いきや、気付く間もなく、平凡な灰色へとフェードアウトしてしまっている。崇高な自然を前にした時の、人間の無力さ・卑小さを重い知らされる、儚い一時である。
しかし、あの空の色は、本当に「紫色」なのだろうか。絵の具で描く際、何色を出せば、あの空の再現になるのだろうか。赤と青を混ぜるだけでは足りなそうだ、黄色も要るのかしら、等々と考えたが、ふと「何色」という捉え方はしない方が良いのでは無いか、と思い至った。
絵の達人は、どのようにあの空の色に到達するだろうか。私自身、絵の素養や経験は皆無だが、敢えて想像すると、以下のような過程を踏むだろう。夕暮れの空を目撃した画家は、出来る限り克明に、その色と、そしてそれ以上に、その色(或いは情景・場面)から受けた感覚(印象)を記憶する。そして、とりあえずそれに近い色の絵の具を出す。その色から受ける印象を踏まえ、「これよりはどんよりしていた」などと感じ、そこに別の色を足す。更にそこに「もっと軽かったはず」「透明感が足りない」など、感覚の記憶との差異を埋めながら、あの色を再現する。その際、「赤の絵の具」「青の絵の具」などと考える隙は、全くないのではないだろうか。飽くまでも、「感覚に一番近い色」を手に取っているだけではないだろうか。
また、表現の一媒体としての「絵」においては、もう一つ別の段階での問題も浮かんでくる。あの空の色の感覚を、絵の鑑賞者にも共有してもらえるか否か、である。ここに至って、「色をそっくりそのまま再現する必要はない」という直感が強くなる。では必要なのは何か。恐らく、「感覚の再現」であろう。描かれるのは「あの空の色そのもの」ではなく、はたまた「私に見えた色」ですらなく、「私を圧倒したあの空の感覚」なのだ。極論を言えば、「描き手が受けた感覚」を忠実に再現し、伝えられるのであれば、ただの赤でも、ただの青でも、何なら黒でも構わないのだ。その色が極端であって、かつ鑑賞者の共感を引き付けられる人が、「名人」なのかも知れない。
高校生の秋に、三軒茶屋のキャロットタワーの展望室から、富士山に落ちる夕日を見たことがある。あの時、私は「富士山の頂上に金箔を貼り付けたみたいだ」と感じた。繰り返し言うように、絵の素養が皆無なため、その感覚を作品という形に昇華することはなかったが、もし出来たのなら、金箔を貼るところから製作が始まったのだろうと思う。
そして、この「感覚の再現」は、色の話に留まらない。絵画であれば角度や構図、彫刻であれば造形や質感、音楽なら旋律やリズム、更には音色などがあるだろう。YMOのシンセサイザーによる音色に関する試行錯誤が良い例だろう。
文学ならどうだろうか。言葉選びは勿論、感覚に従って為されるだろう。文や段落の切り方、リズム感なども重要だろう。また、色の例と同様に、大胆な言葉のチョイスで感覚を伝えられる人は、名人と呼ばれて然るべきだろう。
しかし、言葉の場合について考えると、正反対の名人についても思い当たることがある。つまり、「ありきたりな表現なのに強く訴えかけることが出来る」という名人である。この文章の冒頭で、空の色を「世界の終わりのような」と例えたが、自分でも恥ずかしいくらいにベタで下手な紋切型だ。恋人の魅力を語る際に「コロコロと表情が変わる」などと表現するケースは山ほどある。しかし、こういった、使い古された言い回しは、いついかなる時でも、平凡に映るかと言うと、そうではない。文学やマンガであれば文脈や流れ、演劇や落語であれば抑揚や言い方によって、非常に強い共感を引き起こすことがある。それをやってのける表現者もまた、名人なのであろう。もっとも、こちらの類いの名人たれるか否かは、技術と同じくらいに、表現行為それ自体への熱意、或いはその対象への思い入れ・愛が重要になってくるような気もするが。

以上、前半「自己流・印象派入門」、後半「古典落語はどうやれば面白いか・序」でした。

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