異次元世界への旅ー私の‘’村‘’体験10

10 研鑽学校 2-信じる。残れますか

 「研鑽学校」では、個人の感覚はいかに不確かか、ということを学習させられる。「自分の考えや感じ方を‘’村‘’に預けてしまうことがいいこと」、「自分の判断に頼っているから苦しくなる」と巧みに思わされる。そのことによって、研鑽で決めることの重要性を身につけさせるのだ。

 例えば、「信じる」という研鑽があった。「あなたは何を信じていますか」と聞かれた。「神」と答える人もいたが、私は信仰を持っていないし、関係ないや、と思っていた。
 そうしたら、世話係の人がどこからかポットを持って来た。
 「これは、何ですか」「ポットです」「そのポットとこのポットは同じ物ですか」という問答があった。
 初めはちっともわからなかった。何でいきなりポットを持ち出すのか、それと「信じる」ということとどういう関係があるのか。同じ問いが何回となく繰り返された。
 そして、ある瞬間、それは何かのきっかけがあったとかではなく、私の外の状況はそれまでとまったく同じなのに、ハッと気がついた。
 「そのポット」とは、私が見た、私の頭の中にあるポットなのだ。
 「このポット」とは、ポットそのものなのだ。
 そして、「何を信じているのか」というのも、わかった。それは、信仰の対象としての神や仏を問うているのではない。
 神を信じるとして、神の何を信じるのか。そのとき、信じているのは、実は自分の認識である。信じないことも、自分の判断を信じているのである。神を信じることも、信じないことも、自分の判断を絶対だと信じている点では同じである。

 しかし、人間の判断や記憶なんて頼りにならないのなら、どうしようもなく、心許ないではないか。信じるものが何もないなら、どうやって支えていけばいいのだろう。それが、研鑽でやっていく、みんなの知恵を集めていく、ということか。
 そう考えて、実に自然に、自分の判断を‘’村‘’に預けていくことになる。

 「研鑽学校」でも「特講」と同じように、「残れますか」の問いがあった。
 「特講」のときには「残れるわけがない」と思っていたのに、このときは残れるような気になっていった。
 その日、「無所有」の研鑽があった。「所有」にこだわるから、争いが生まれる。「所有の観念をなくせば、生きるのが楽になる」と言われた。「無所有」は「共同」とは異なる。共同は「みんなのもの」だが、無所有は「だれのものでもない」と説明された。
 「だれのものでもない」というとき、「一番放せないのはモノでもカネでもなく、子どもですらなく、自分自身ではないか」という意見が出た。そして、「だれが用いてもよい」には、自分も入るのではないか、ということになった。

 その夜である。
 「この研鑽学校が終わっても、引き続き、ここに残って、何でもやれますか」と問われた。
 「特講」のときは、結局、最後まで「残れません」と言ったなぁと思い出した。「残れます」と言えばそれで釈放されるような、強要されるような雰囲気がいやだった。
 「研鑽学校」でも、なかなか「残れます」とは思えなかった。
 周りの人は、1回問われただけでも、待ってましたとばかりに「残れます」と言っていく。何でそんなに簡単に答えられるのだろうか、と不思議でたまらなかった。
 初め私は、「引き続き」はできないと答えた。仕事もあるし、そんな無責任なことはできない。

 けれども、何回も問われ、そのことだけを考えていたら、わかってきた。その問いが、まっすぐ自分の中に、入ってくる感じがした。
 そうしたら、考えるのは、そんな具体的なことではないと思えた。もっともっと本質的・根源的なものである。
 それは、今までのような生き方を続けるのか、否か、である。
 今までのような、人を責めたり、責められたりするような生き方がいやになり、自分をもてあまし、もう疲れ果てたから、ここに来たのではないか。何とかして抜け出したいと、もがいて、変わりたいと思ったからこそ、休みを取り、新幹線に乗って、ここに来たのではないか。それなのに、ここで、「残れません」ということは、また、同じことの繰り返しではないか。…
 「今までのような生き方はしたくない」という強い思いがあって「研鑽学校」に参加しただけに、「‘’村‘’か、ストレス社会か」の二者択一しか考えられなくなっていく。
 「研鑽学校」が終わる頃には、「求めていたものを見つけた」、「本来の自分に立ち返る」、「私は私のままでいていい」と感じていた。

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