異次元世界への旅ー私の‘’村‘’体験4 

4 特別講習研鑽会(特講) 1-生活

 特講に行く前には、内容は一切知らされていなかった。「あらかじめ内容を知らせるのは、推理小説の犯人を教えるようなものだ」という地域の会員の説明に、妙に納得してしまった。
 ともかく行ってみなければわからない、と思っていた。そこに行けば何か変わるのではないか、解決するのではないか、という期待があった。
 それに、‘’村‘’の会員の集まりに出る中で、その人達に信頼感を持ったこともある。みんな、落ち着いていて、ゆったりしているように見え、私のようにイラついている人はいないように思えた。

 私が特講に参加したのは、栃木県の那須の会場だった。参加者は50人ぐらいで、春休みの期間のためか、学校の教師達もけっこういた。

 会場に着くと、まず、時計、財布、メモを預けさせられた(当時はまだ、スマホや携帯はなかった)。そのことに抵抗感を感じる人もいたが、私は「ここまで来て、往生際が悪い」と冷ややかに見ていた。
 必要ないものを預けることで、講習の内容に集中するため、とか日常の習慣を「放して」みるため、という説明を受けたような気がする。
 財布を預けるのは、途中の脱走を防ぐためではないかと思った。時計を預けると、よりどころのないような、不安な気持ちになった。それでも日中は、陽の傾き具合から大体の時刻を推定することができたが、夜は何時なのかまったくわからなかった。

 そして、12、3人ずつの「班」に分けられた。班は男女比や年齢比が偏らないようになっていた。食事や入浴などの生活は班ごとに動くことが多かった。各班には男女1人ずつの「世話係」と呼ばれる‘’村‘’の人がついた。班ごとに「研鑽会」という話し合いを行うこともあり、班の仲間とはかなり親しくなった。

 毎朝ラジオ体操の時間があった。体操の後は掃除。掃除は班ごとに分担が決まっていて、部屋の他にローテーションで廊下、トイレ、風呂、洗面所などの掃除をした。いちいち声を掛け合って作業をするのがしらじらしかったが、日が経つにつれて慣れてしまった。

 食事は1日2回だったが、けっこう豊富だった。材料の展示がされ、すべて‘’村‘’の生産物であることが強調されていた。
 ただ、おかずを取って回したり、調味料を取ってもらったりするのがわずらわしく、ゆっくり食べる感じではなかった。女性がご飯やみそ汁をよそうことになっているのにも抵抗があった。でも、参加者には主婦の人が多く、率先してやってしまう。疑問を抱かない人達の中で、孤独感を味わった。
 食事の後は班ごとに交代で後片づけをした。共同作業なので、班員同士の親密感が深まっていった。残飯は家畜用に分別してリサイクルしていて、魅力に感じた。

 お風呂では、タオルが共有なので、いやがる人も多かった。でも私は、それより、見知らぬ人同士でなれなれしく背中を流しあったりするほうがもっといやだった。
 夜寝るときは、2人で一つの布団に寝る。もちろん、男女別ではあるが。そして、起きると、シーツの畳み方を、細かく指示される。しかも、決して1人で畳んではいけない。2人で協力して畳むことになっていた。
 とにかく、生活のすみずみまでに、某ハンバーガーショップも真っ青のマニュアルがあった。世話係の人は、プラスチックケースに入った、マニュアルを書いたコピーを見ながら指示していた。

 ‘’村‘’には「強制はない」ことになっている。だから、世話係は何か指示するときには「○○しましょうか」と「か」を付けた言い方をしていた。
 「○○して下さい」とか「○○しましょう」ではないのが印象的だった。しかし、では従わなくてもいいのか、というと、そんなことはない。それに対して疑問を口にしても「今はそのやり方でやってみましょうか」と繰り返し言われる。しゃべる機械に話しているようなむなしさが残り、だんだん疑問を口に出せなくなった。周りの人が黙って従っているのに、いつまでも1人で文句を言うのにも、疎外感を感じてしまった。
 また、初対面の人たちの中では、生活のやり方が細かく決まっているほうが、必要以上に気をつかったり、遠慮しあったりすることがなくて、ラクだということもあった。
 そういう体験を通して、何でも自分で考えない方がラク、ということを悟らせる目的があったのではないか、と疑ってしまう。世話係の人は、「ともかく日常の生活習慣を放してみることが大切」と言っていたが。

 一番抵抗感があったのは、呼び名だ。男性は姓で、女性はファーストネームで呼ばれた。そして、男性は「○○さんのおとうさん」、女性は「○○さんのおかあさん」と呼ばれた。はじめ、呼ばれている人の親のことを指しているのかと思ったが、そうではない。
 私は、子どももいないのに「おかあさん」と呼ばれるのがとてもいやだった。結婚して子どもを産むことだけが認められ、それ以外の生き方は否定されているような感じがしたからだ。

 生活全体、あるいは研鑽会でも、ともかく先の予定は一切知らされなかった。わかっているのは唯一解散日時だけだった。次に何があるのかは、世話係だけが知っていた。「目の前のことに集中するため」との説明があったような気がするが、それだけでなく、参加者を落ち着かない、先の見通しの持てない気持ちにさせる目的もあったのではないか。

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