異次元世界への旅ー私の‘’村‘’体験18

18 旅を終えて

 ‘’村‘’に入り、出て、あちこち(国内)を放浪し、私の中の何が変わったのだろう。私にとって、とても大きな出来事だったが、「使用前」と「使用後」で何が違うのか。

 アパートの近くに市民農園などを借りて野菜を作ったこともあった。
 1時間に2、3本しか電車が来ない所に住み、会社まで毎日片道2時間もかけて通っていたこともあった。
 戻って来てからは、ほとんど派遣で働いていた。正社員として働けるとは、思っていなかったからである。1カ月とか、ときには1週間とかの短期の仕事も多く、いつも不安がつきまとう。実際、次の仕事が決まるまで1カ月位間があき、失業することも多い。‘’村‘’に入る前より、状況はよくない。それでも、‘’村‘’に行く前のことを思えば、少しは生きるのが楽になっている気はする。そのときより何歳も年を取っているのに、今のほうが身体も元気だ。

 ‘’村‘’にいた日々は、私にとってはつらいことが多かったが、私は‘’村‘’に傷つけられたとは思っていない。
 因果は逆で、傷ついていたから、‘’村‘’に行ったのだ。
 「溺れる者はワラをもつかむ」と言う。私は溺れていて、‘’村‘’がワラだと思ってつかもうとしたら、それはワラではなくバラ線だったので、よけい傷ついたのだ。そうではあっても、‘’村‘’に行く前からすでに溺れていたことに変わりはない。
 そして、‘’村‘’に入らなければよかったとも思っていない。もっとも、2度と行きたいとは思わないが。入らなければわからなかっただろう。いつまでも「あこがれの場所」として理想化してしまっていたかもしれない。それに、いつもいらだち、いらだつ自分をもてあまし、責める生活から抜けだすことはできなかっただろう。「特講」に行ってから村に入るまでの半年間は、確かに充実感や幸福感を味わい、「理想の‘’村‘’に入る」ことに希望を持ち、それが心の支えになっていた。

 ‘’村‘’を出るときには、もうどこにも居場所がないと思っていたけれど、そんなことはなかった。日本にいても、都会の生活でなくても、暮らしていける所は、いくらでもある。
 「ここしかない」と思うと、苦しくなる。そこにいるのがいやだと思っていても、逃げ出すことを考えるより、むしろ追い出されはしまいかと不安になる。でも、「ここしかない」ことは、ない。
 「井の中の蛙、大海を知らず」という。大海を知らなくても、いい気になっているのなら、まだいい。井の中にいて、絶望していたのだから、始末が悪い。でも、井の外にも、生きる場所は、いくらでもあるのだ。そして、1つの所にずっといなくてもいい。いきあたりばったりでも、「とりあえず」でも、何とかなるのだ。
 そしてまた、「取り返しのつかないことはない」とも思う。すべてを捨てて‘’村‘’に入り、出ても、生きてはいけるのだ。失敗をしても、何とかはなる。失敗を恐れるのは、「そら見たことか。だから言わんこっちゃない」と責められるのがいやだからである。でも、‘’村‘’を出たとき、サークルの人には、そうは言われなかった。もっとも、内心では「だからあれほど反対したのに」と思っていたのかもしれないが。

 今でも腹が立つことは多い。なぜ腹が立つのかの理由は、いまだにわからない。腹の立つ理由など、本当にないのかもしれない。それでも、理由はなくても腹は立つ。怒りは、理論ではなく感情だからである。
 頭ではわかっていても、気持ちが納得できないことは、いくらでもある。そして、感情に振り回されるのは、本当にいけないことなのか。
 でも、「もう、‘’村‘’の中にも、外にも、私の居場所はない」と思い詰めて、死のうと思ったとき、私を救ってくれたのは、理論ではなく感覚だった。頭では「生きていくのはつらい」と考えていても、身体は生きたがっていた。
 脳の中には、1匹の馬と1匹のワニが住んでいるという。馬やワニは、理性ではなく動物的な感覚である。私の脳に住んでいた馬やワニが、私を救ってくれたのだ。

 確かに‘’村‘’の言うように、個人の感覚や判断は不十分で、間違いも多い。でも、たとえ悪い結果になるにせよ、失敗しても、取り返しはいくらでもつく。苦労しようと、回り道をしようと、自分で選んだことなら、それがたとえ、はた目からは「不正解」な選択で、損をすることになるにせよ、自分にとっては、得るものがあるだろう。
 戻って来てから、何回も引越し、仕事も転々とし、うろうろしてばかりいた。なかなか「これ」というものが見つからない。それでも、何とかはなっている。思い通りにはならないが、思いがけないことが救ってくれる。「もう、どうしようもない」と思っていても、変化は突然やってくる。
 ‘’村‘’を出たとき、「地元には、今、どうしても戻りたくない」と思い、それに従った。それから道は開けた。そのとき、ともかく道はなくても、やみくもに進んでいた。それは、無謀と言われても仕方ないし、無計画で向こうみずなことだろう。他人にもずい分迷惑もかけただろうし、心配もさせた。でも、先を見ずに行動したのは、いくらやむにやまれぬ事情にせよ、逃げたにせよ、自信になっている。
 それまで、とても恐くて自分にはできない、と信じ込んでいたことを、気がついたらやっていたからだ。恥も外聞もなく、なりふり構わず、人に助けを求めた。とんでもないことを乗り越え、何があっても大丈夫、ということを、しっかり体感したはずだ。

 ‘’村‘’に入り、出て、過ごした日々は、否応なく、自分がそれまで持っていて頼っていた思考体系を壊し、それでも生きていける、ということを身につけさせてくれた。
 こういう風にも生きられる、どうやっても暮らしていける、と触発され、そして生きる気力を取り戻していったのだ。
 私でもやっていけるのだ、という自信、内から湧いてくるエネルギーを得ることができたのだと思う。そして、思いがけない収穫は、そうしたことを通じて、自分がもともと持っていた生命力に気づいたことである。もう大丈夫、何があっても何とかなる、と思える。

 ‘’村‘’を出たときには、もう1人でアパートを借りて、仕事を探して、日常生活を送る気力なんて、2度と出てこないと思っていたのに、そんなことはなかった。
 ‘’村‘’を出たときのことを思うと、我ながら、よく生き延びてきたものだと思う。困難を乗り越えたのに、乗り越えるとすぐ忘れてしまう。しかし、乗り越える前は立ちはだかる壁のように見えていたのだし、越えるだけのエネルギーが自分にはあったのだ。壁を越えようとするとき、手伝ってくれる人や知恵を貸してくれる人はあったにせよ、「越えたい」と思ったのは、自分なのだ。確かにそこを越え、今、ここにいる。

 自我があるから、悩む。自分の判断をすべて研鑽に委ねるのは、確かに楽なことではある。でも、私には、自我をなくすことは耐えられなかった。
 悩むのもつらいが、自我をなくすのは、もっとつらい。自我を捨てずに悩むのか、自我をなくしてロボットになるのか、二者択一の究極の選択である。
 でも、第3の道は、きっとある。それは、なかなか見つからないが、探す気力はまだある。あきらめてはいない。

 先のことはわからない。わからないのは不安でもあるし、もどかしくもある。
 でも、もしすべてがわかってしまったら、決められたレールの上を歩くようで、つまらないだろう。先が見えないから、歩いていけるのかもしれない。
 ドキドキしたり、ハラハラしたり、肝を冷やしたりすることがあって、心配でたまらなくて、不安でいたたまれなくて、悲観と楽観がモザイクのように入り混じって、だからこそ生き物なのだと思う。
 後からは、「ああ、あのときはしんどかったなぁ、もっとラクに生きられたのになぁ」と思える。でも、そのときは必死でもがくしかない。

 子どもの頃は、1日は果てしなく長かったのに、年を経るにつれて、ときが経つのを速く感じるようになるという。「1年なんてあっという間にすぎる」という人も多い。私も、そうだった。
 でも、‘’村‘’に入り、出て、からは、そうではない。1週間、1か月、1年がとても長く感じる。1か月前、1年前のことが、はるか大昔のことのように思える。それだけ、濃い日々を送っているのだろう。

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