異次元世界への旅ー私の‘’村‘’体験1

1 行き先案内


※この文章は,‘’村‘’を批判したものでもなければ,賛美したものでもありません。
 あくまでも,「私」にとっての‘’村‘’体験を書いたものです。

 私が初めて‘’村‘の会員の一人に出会ったのは、1990年代の半ばだった。

 ‘’村‘とは、農業を中心とした共同生活をする団体である。1950年代に養鶏家のYさんという人が提唱したという。

 ‘’村‘の会員は当時、全国で7万人ぐらいだったらしい。
 会員には2通りあり、地域で‘’村‘の活動をする人と、‘’村‘に入って生活する人がいた。
 地域で活動する人は、主に地域の人に‘’村‘を勧めたり、商品を売ったり、会員同士で話し合ったりしていた。
 会員には小さな子どもの親が多く、子育ての悩みを話す場があることで救われている人もいるようだった。
 休みの日には‘’村‘で行われる行事にスタッフとして参加する人も多かった。
 親は地域に住み、子どもだけ‘’村‘の「学園」に入れている人もいた。「学園」では子どもは5歳から親と離され、寮で生活し、寮から地域の学校に通っていた。また、そこまでするのはちょっと、という場合には、夏休みなどに子どもを「楽園村」という行事に参加させる人もいた。

  ‘’村‘の正式名称は「実顕地」と呼ばれていた。「実験地」ではない。‘’村‘の理想を「実際に顕わした所」の意味が込められている。
 ‘’村‘で生活している人は、当時、全国で3000~4000人ぐらいらしかった。‘’村‘は全国各地にあり、海外にもあった。
 一番の中心はM県のT市である。
 ‘’村‘の規模はさまざまだったが、T市では1000人以上が暮らしていたように思う。人数がはっきりしないのは、知らされていなかったこともあるし、日々変動していたためでもある。
 一方、小さな‘’村‘には、数十人規模の所もあった。‘’村‘の中には田んぼや畑があり、大きな‘’村‘には食品加工工場や診療所まであって、生活のすべてがまかなえるようになっていた。ただし、義務教育だけは不可能なので、子どもたちは‘’村‘の外の学校に通っていた。

 ‘’村‘の大きな特徴の一つは「お金がいらない」ことである。身の回りのわずかなもの以外はすべて共同だった。
 そして、すべてが「研鑽」で決められていた。教祖様や、誰か偉い幹部が決めたことを実行するのではなく、「みんなで決めて、みんなで実行する」ことになっていた。でも、結論はあらかじめ決まっていて、そこに誘導されることも多かったけれど。                                                  

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