異次元世界への旅ー私の‘’村‘’体験13

13 ‘’村‘’での生活

 ‘’村‘’に入ると、初めは「予備寮」と呼ばれるところで生活する。「予備寮」にいる間は試用期間のようなもので、人にもよるが2、3カ月だという。そこにいる間に、適性を見るのだろう。
 「予備寮」にいるうちに村を出れば、財産は返してもらえる。当時、‘’村‘’を出た人が財産返却を求める裁判を起こす例が多かった。入るときには、全財産を提供することに同意しても、実際に生活してみると、「こんなはずではなかった」ということはある。外から見るのと、中に入って生活するのとは、わけが違う。そこで、「予備寮」にいるうちに判断してもらい、いやなら早めに出て行ってほしい、ということもあるようだった。
 私が「予備寮」に入ったとき、寮生は20~30人ぐらいだった。そこに、世話係が男女1人ずつついた。夫婦は同じ部屋、独身者には同性同士2人で6畳1部屋が与えられた。荷物はほとんどないので、狭くはなかったが、そこで初めて出会った人と同室の生活は、何かと気をつかって疲れるものだった。

 毎朝6時頃に起きた。日によっては5時頃、まだ暗いうちから作業をすることもあった。まずは「予備寮」の掃除などをして、それから「職場」に行って働く。
 女性は初めは「生活」担当で、主に食事作りに入る。炊事といっても、少なくても何十人分なので、大変である。しかも、細かいことまですべて決められている。ジャガイモやタマネギやニンジンはこう切る、次はこうする、というのがあらかじめ「研鑽」で決められていて、その時の気分で変更するなんてとんでもなかった。
 合理的ではあったが、窮屈だった。そして、ちょっとでもやり方が違うと、すぐ怒られる。姑にいびられる嫁のような気がした。

 生活担当の後、農産加工の仕事もした。
 プリン工場では、背丈よりも深い容器の中に入り、ブラシで洗ったこともあった。
 シイタケの収穫・計量などもした。シイタケはプラスチックの容器の中ににおがくずを詰めて、薄暗い倉庫のような建物の中で栽培していた。
 農作業自体は、なかなかやらせてもらえなかった。それでも、鶏舎や豚舎の掃除などはした。竹ぼうきで通路を掃いたり、ドブ掃除をしたりした。疲れて、豚舎の金網によりかかって休もうとすると、豚にお尻をつつかれて、休むこともできなかった。エサ運びなどの力仕事もあり、なかなかうまくいかず、周りから責められるよりも、自分で「こんなことじゃダメだ」と思ってつらかった。外でもうまくいかないのに、‘’村‘’でも落ちこぼれている気がした。頭ではあせっても、身体は思うようには動かない。
 「動噴(動力噴霧機?)」と呼ばれる機械で圧力をかけて水(お湯)を出し、豚舎の掃除をしたこともあった。豚舎の床は蜂の巣状の金網になっていて、汚れた水が下に落ちるようになっていた。はじめ、ざっとお湯をかけて糞などの汚れをふやかし、次に端からお湯を噴射して吹き飛ばすように洗っていく。カッパを着ていても全身がずぶぬれになった。ホースにはかなりの圧力がかかっているので、ちょっとでも気を抜くと、ホースが手からはずれてしまう。その作業をしながら、「自分の心の中の汚れも、洗い流したい」と思った。

 「職場」は確か50カ所位あり、毎日違う職場に行った。‘’村‘’はかなり広く、自転車に乗って行く「職場」もあり、道に迷ったりして行くだけで大変だった。午前と午後で違う所に行くことも多かった。そのため、いつも新入社員状態で、慣れることができず、オドオドしていた。 
 毎日違う「職場」に行かせるのは、いろいろな所に慣れさせるためもあっただろうが、新入‘’村‘’人を落ち着かない気持ちにさせる目的も大きかったのではないか。いつもビクビクした自信のない状態に追いやることにより、それまでの自分の思い、つまり自我をはずしやすくすることができる。

 食事が1日2食なのは「特講」などと同じだった。食後はテレビを見ながらお菓子を食べたりする時間もあった。新聞も置いてあったが、だんだん読む気力を失っていった。
 1日の総労働時間は7~8時間位だったと思う。昼寝の時間もあり、通勤時間もほとんどない。作業から帰れば、食事はできているし、個人で洗濯や掃除や風呂の準備をする必要もない。休日はなかったが、通勤時間や家事の時間がない分、時間的にはそれまでの生活よりラクだとも言えた。
 その割には、自由時間が少なかった。‘’村‘’に入るときには、「すべての財産」を提供することが求められる。その財産の中には、お金だけでなく、自分の時間も含まれているのだ。そして、自分の時間がなくなるとはどういうことか、そのときになってみないとわからなかった。

 「予備寮」に入って10日位の時、地元でサークルの発表があった。「どんなところで行ってくるのか」と問われ、「みんなを安心させたい、元気な姿を見せたい」と言った。それだけなのに、もう涙が出てきた。
 そうしたら、「今回で一区切りにしましょうか」と言われた。涙が止まらなかった。仲間への思いが一気に噴き出した感じだった。
 そして、サークルの発表を無事に終え、帰って来たら、「これでもう終わりにしましょう」というように言われた。ショックだった。1年に1回くらいは出られると思っていたのだ。自分の考えの甘さを思い知らされた。とんでもない所に来てしまった、という思いを抱くようになった。

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