異次元世界への旅ー私の‘’村‘’体験17

17 救出

 ‘’村‘’を出たとき、どこにも行くあてがなかった。「戻ってきたらいいのに」とも言われたが、元の生活に戻る気がしなかった。
 そんなとき、多くの人に助けられた。それがなかったら、今、生きていられなかったろう。感謝しきれない思いがあふれてくる。

 「予備寮」を出た日、反‘’村‘’の本を出している出版社に行った。その出版社は個人でやっていて、見ず知らずのそこの家に3日間泊めてもらった。その人に「あちこち回ってみたらどうか。もう2度とできないだろうから」というようなことを言われた。
 その後、あるお寺を紹介され、そこにも3泊ぐらいした。でもそこにも、多少お金は払っても、長くはいられなかった。
 たまたま、その宿泊所に、農業をやっている人の募集のポスターが張ってあった。電話したら、行ってもいいと言われたので、行くことにした。
 その日は、泊まる所がなかったので、夜行のバスに乗った。バスの発車時刻まで間があったので、大きな本屋に行き、立ち読みをした。そして、「こんな大きな本屋さんに来られる日が、また来るのだろうか」と思っていた。

農家に居候


 そして、その農家に、初対面なのに、しばらく居候させてもらった。何軒かに行き、最終的にある家に4カ月近くいさせてもらった。どこの馬の骨かもわからない人間が、突然訪れたのに、受け入れてくれて、とてもありがたかった。
 農業の手伝いと言っても、冬だったので、そう忙しくはなかった。
 標高が高いためか、地元よりずっと寒かった。
 毎朝厚い氷が張った。朝一番の仕事は、カナヅチを持って鶏舎に行き、桶の氷をカナヅチで割って、鶏に与えることだった。30分位して1回りして戻ると、雨水を貯めた桶には再び薄い氷が張り始めていた。
 鶏糞を集めたり、田んぼや畑にその鶏糞を運んで行ってまいたり、鶏舎の改築の手伝いをしたりして日をすごした。そこでは鶏舎も自分たちの手で作っていた。採卵した卵を1個1個サンドペーパーで磨き、軽トラで売って回っていた。
 トイレはもちろん汲み取りで、排泄物は肥料の一部として使っていた。
 お風呂も薪で焚いていた。畑にはイノシシ除けの電気を通した柵が巡らせてあった。それも手で杭を打って、自分たちで作ったものだった。
 夏の間、雑草を取らせるために田んぼに放していたアイガモを、さばいて肉にして食べたち売ったりしていた。お湯を沸かしてアイガモの羽をむしり、解体するのも皆、そこの家の人がやっていた。

 原始的とも言える生活だった。今の日本で、こんな風にも生活できるのだ、と思った。‘’村‘’か、ストレスに満ちた都会生活か、二者択一しか考えられなかった自分が、いかに視野の狭い考えをしていたかがわかった。
 冬に行ったこともあるが、そこの家の人たちはのんびりと暮らしていた。私にはまねできないにしても、あんな風でも暮らしていける、という実物を見て、そこでわずか4カ月位とはいえ、一緒に生活できたのは、代えることのできない貴重な体験だった。

 そこで出会った人たちは、みな、その土地出身の人ではない。ある程度の年齢まで都会に住み、他の仕事をしていて、外から入植して、しかも子どもがいても、やっていけているのだ。まして大人1人だけなら、どうやっても暮らしていけるだろう。
 たった4カ月位で、しかも冬の生活しか知らなかったが、大きな影響を受けた。気力が回復していくのがわかった。

 2月に入ると、まだまだ寒さは厳しいものの、夕方6時近くまで明るかった。夕陽が斜めに差す時、木々の緑が毒々しいほど鮮やかに見えた。
 よく、がん患者の手記などで、自然が鮮やかに見えると書いてあることがある。その気持ちがわかるような気がした。自然がそんなに美しいとは、それまでの都会生活では感じたことはなかったように思う。

 しかし、一方では、自分の居場所がない気もしていた。
 畑に行っても、自分のできない面ばかり見せつけられ、めいっていた。回りの人たちがたくましく暮らしているのに圧倒され、自分には体力もなく、手伝っているよりはかえって足手まといになっているのではないか、と思っていた。
 そこにいることが、何の役に立っているのだろう、単なる寄生者ではないか、と思っていた。
 私には、知識も技術も経験も、体力も度胸も根性も、運転免許もない。こんなのでやっていけるのだろうか。そうしてあるのは、不安と迷いとあせりと悩みととまどいと疲れである。

 見ず知らずの私を住まわせてくれ、とてもお世話になっているのに、しばらくすると、しんどくなってきた。
 そこの家は、昔ながらの農家のつくりで、廊下というものがなく、部屋はみなつながっていて、トイレに行くのにも他の部屋を通らなければならかった。そして、小さい子が3人もいた。自分が元気なときはいいけれど、疲れてくると、子どもの声が気になる。でも、居候の身では「うるさい」なんて文句も言えないし、とだんだんストレスがたまっていった。
 ストレスがたまっていたのは、たぶんそこの家の人だって、同じか、もっと強かっただったろう。あるとき、「子どもがいて疲れた」と言ったことがきっかけになり、そこも追い出され、また居場所がなくなった。

農場へ

 それでも地元に帰る気はしなくて、今度は個人の家ではなく共同で農場をやっている所に行き、暮らすことになった。
 そこには結局、約1年いた。
 その農場は、私が行く何年か前までは盛んに農業をやっていたらしいが、当時はほとんど開店休業状態だった。でも、それがかえって幸いした。本当に盛んにやっている所だったら、私にはとてもついていけなくて、しんどかっただろうからだ。

 雨の後、強い陽射しが当たると、畑から湯気が立ち上った。作物の成長も速かったが、雑草もどんどん伸び、草取りが大変だった。ちょっと油断すると、雑草が膝から腰位の高さになった。そうなると、見通しがきかず、どこに野菜が生えているのかもわからない状態になった。
 そして、雑草の背丈が40~50cm以上になると、ヘビが出た。大半は「カラスヘビ」と呼ばれる体長1~1.5m位の黒いヘビだったが、時にはマムシも出た。農場の人がマムシをつかまえたこともあった。カラスヘビは無害だとは聞いていたが、それでも怖いことには変わりなく、ヘビが畑のうねの上をスルスルと泳ぐように通るのを見ると、足がすくんだ。ヘビを見た夜には夢にもヘビが出て来て、うなされたり、叫んで目が覚めたりした。
 地元では見かけない大きなミミズもいた。普通のミミズは体長12~13cm位で赤っぽいが、そこでは「ヤマミミズ」と呼ばれる体長40~50cm位、直径1cm位もある青黒い、ヘビのようなミミズが出た。これも、害はないと聞いてはいたが、怖くて近づけなかった。
 部屋には体長15cm位もあるムカデが出て、小学生の子が刺されたこともあった。

 ヘビやミミズは怖かったが、野菜から「早く来てくれ~」と呼ばれているような気がして、畑に通っていた。
 「雑草が覆いかぶさって息ができないよ~」、「混んでいて苦しいから早く間引きしてくれ~」、「つかまる物がほしいよ~。支柱を立ててくれ~」と、あちこちから助けを求める声が聞こえてくる気がした。
 こっちにいるとあっちが気になり、あっちにいると別の所が気になり、毎日追われていた。計画を立ててやろうとしても、なかなか思うようにはいかなかった。
 トマトやナスにしても、苗からどのぐらい大きくなるのか、見当がつかない。混みすぎるので、あわてて植え替えたりした。初めてで、わからないことばかりで、どうしても後手後手に回ってしまい、作業が追いつかなかった。

 それでもけっこう野菜は育ってくれた。たぶん、畑がしばらく放置されていたので、肥えていたこともあるのだろう。
 どの作物も、初めは生長が遅い。種類にもよるが、背丈が7、8cm位になるまでは時間がかかり、ひ弱で、こんなので本当に育つのだろうかと心配するぐらいだった。それが、あるところを過ぎると、急に大きくなり、気が付くとふてぶていしいほどたくましくなっている。「2倍の大きさになるまでにかかる時間は同じ」という指数関数的な育ち方をするようだった。
 何といっても忙しいのは5、6、7月だった。わけもわからずやみくもに、ひたすらに、がむしゃらに、畑仕事をしていた。でも一方で、その前とは違って、自分のやることが見えていること、「こうしろ」と言われてする“お手伝い”ではなく、自分で計画してやることの快感も味わっていた。
 間引きをするときなど、しゃがんで、素手で土を触っていると、大地のエネルギーが指先からじかに伝わってくるような気がした。夏至の近くには夕方8時頃まで明るかった。山の上にあった農場からは遠くに海が見え、夕焼けが海に映えるととても美しかった。刻一刻と色を変えていき、時のたつのを忘れて見ていたこともあった。

 2、3カ月すると、キュウリやミニトマトが実り、カボチャやオクラも花を付けるようになった。成果が目に見えてわかり、充実感を味わえた。トマトやナスやカボチャの実がなり、少しは気持ちに余裕が出てきた。


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