偽名の使用は人格を飼うということ

こんにちは。昨晩投稿したものが自分が思っているより多くの方に読んでいただけたようでとても嬉しいです。ありがとうございます。            

実は私は浪人生であります。それは紛れもない事実です。
「勉強しなよ。」そう思ってくださる方もいるかと思いますが、少しの息抜きです。もし良ければお付き合いしていただけると私生活の活力にもなります。

さて、早速タイトルの話をしたいと思います。

早稲田大学の過去問にて、こんな過去問を見ました。
「俳号は、作者から現実の様々な痕跡を消し、要するに五七五音の表現だけを際立たせる工夫だったのです。」

この文は俳句について書かれていたものです。俳号とはペンネームのようなもの、つまり、俳句専用のお名前ですね。
本名と俳号を使い分けることで、その人の印象に左右されず、純粋な俳句の技術を評価してもらうために用いるそうです。

例えば、マンガ家に置き換えるとわかりやすいでしょうか。
もしも、筋肉隆々なおじさんの少女マンガ家がいたとしましょう。
この方はマンガを出すとき本名ではなく、すごく可憐なペンネームを使うとします。その少女マンガを読むとき、何も知らないで読むのと、「この人が書いているのか…」と読むのでは余計な意識が入ってしまいますよね(作者さんの人柄を知って読むのも、おもしろかったりしますが)

この問題文を書いた方は、そういう意味で「俳号は仮面(ペルソナ)です。」と、さらに、「本名だけのただ一つの自己よりも、雅号(≒俳号)という仮面を被ることで、出現するいくつもの自己を望みます。」と述べていらっしゃいます。

これは俳句の流行った時代から一周して現代の我々が共感できるところは多いのではないでしょうか。
それこそヲタ垢とか。私生活とは離れた、自分の趣味を共有できるコミュニティ形成に使う人もいると思います。特に隠れヲタの人なんかそうじゃないですか?

私の「かいり」という名前も偽名です。本名ではありません。
でも、これを書いている私は紛れもなく「かいり」本人であり、「かいり」という自己に従って、時には名前を借りて物事を発信しようとしています。

私は承認欲求が非常に強いため、周りの反応欲しさに、本名のインスタ、ツイッターアカウントに紐づけようかと思いましたが、やめました。「なんかスカしてんな」とか「意識高い」とか、言われるかもわからない冷やかしを避けるためです。

それでも自分のこと、思ったこと、共有できたらいいなと思って、偽名という仮面を被り、新しい人格を飼うことでnote投稿を始めました。

それこそ「思春期だから周りを意識しちゃう」とか「周りを気にしてても良くないよ」とか声をかけてくれる人はいますけど、私はこれでいいのです。

今の私は周りを気にするし、それを別の人格を飼うことでバランスをとっています。

どうか周りの目にしんどくなっているのに、気にすることがやめられない人がいたら、私は「そのままでいいよ」「その自分を理解した上で、どう対処するか考えよ?」と提案します。私の場合、それが人格を飼うことだった。

ただそれだけなのです。

なんだか着地がフラフラですね。今後はちゃんと着地できるようになりたいですね。

お付き合いいただきまして、ありがとうございました。

では。

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