「気にする自由」、「気にしない自由」。

作成年月日:2020/8/1


新型コロナウイルスに関する様々な事物について、「気にする」のも「気にしない」のも各人の自由だと思います。


たった一つの「正解」なんてなくて、ある事物を重視すれば、それによって不利益を被る他の事物が存在します。逆も然りです。


しかしそれは、そうして軽視された一方の事物を貶め、蔑み、差別していい理由にはなりません。


「(コロナ禍を)気にする自由」を持った人が「気にしない自由」を持った人を攻撃することが許されるわけではありません。もちろん、「気にしない自由」を持った人が「気にする自由」を持った人を煽るのも同じです。


「気にする」、「気にしない」の自由は各人の思想として尊重されなければならない。


ただ、僕は思うのです。最低限の知識を持たずに「気にする」「気にしない」を選ぶのはあまりに早計すぎるのではないか。


「知識偏重」や「詰め込み教育」はそれ自体よく批判の的になりましたから、知識を詰め込むこと自体にうんざりしたり、めんどくさがったりしている人も多いでしょう。


しかし、知識は思考の基盤です。知識がなければ何事にも取り組めるはずがない。自己の立場や意見を相対化するには反対意見についての知識が不可欠です。


だから、最低限の知識(そもそもウイルスとは何か、感染のメカニズムはどういうものなのか、感染防止はどのようにすれば良いか、感染のリスク低減とトレードオフの関係にあるものは何かなど、、、)を身につけた上で、「気にする」か「気にしない」か、自らの態度を決めても遅くはないのではないでしょうか。


こうした思考の相対化のプロセスを無視すると、結果としてイデオロギー的な二項対立に帰着してしまいます。最初にも書きましたが、コロナ禍における複雑な諸問題に絶対的な正解はありません。何が「正しく」て何が「悪い」かは各人が決めることなのです。


我々は「学ぶ」ことができます。どうか各人が、どんなに些細なことに関してでもいいですから、「学び」を絶やさないでほしい。そうして学んだ結果として、自分の立場を確立するだけでなく、他の多様な考え方を認め、尊重して欲しい。そう思います。

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