男?女?それとも「わたし」?(その2)

作成年月日:2020/7/13


前回の最後で「男女平等」の概念の限界、すなわち、セクシュアル・マイノリティの人々を度外視してしまうことについて述べ、その克服には「平等」と「自由」というふたつの概念をセットで考えなければいけないということを伝えました。


実はこの「平等の限界性」についての考えは大学1年の半ばくらいには頭にあったのですが、うまい言葉が見つからず、言語化するのに悩んでいました。


そうした時、「平等」と「自由」をセットで考える、という方法を本で見つけたのが今年でありまして、それが 瀬地山角著 『炎上CMでよみとくジェンダー論』 光文社新書(2020) になります。(これは読みやすくていい本です。値段も手頃なので是非購入して読んでみてください。)


さて、ここからは「平等」と「自由」をセットで考えるとはどういうことか、あくまで自分なりの考えではありますが、先に記した瀬地山の本に即して具体的に述べていこうと思います。


何らかのカテゴリーに基づく差別を批判し、「平等」を求めることは止めてはならないことです。しかし、こと「男女平等」においては、性二分法的ジェンダー規範が所与の前提とされてしまいます。


つまり、そこから逸脱する者(セクシュアル・マイノリティ)への配慮は必然的に疎かになってしまう危険があります。セクシュアル・マイノリティの人たちは性二分法的なジェンダー規範に基づくカテゴライズにおいて疎外を受けるからです。


ここで重要になってくるのが「自由」の概念です。ここで述べる「自由」とは、すなわち「性二分法からの自由」ということです。


男女の性二分法を前提とする枠組みから各個人が「自由 」であるべきなのです。それはセクシュアル・マイノリティであるかに関わらず、性的指向によらず皆がいわゆる「男」、「女」という既存の枠組みから抜け出すことです。


よく考えてみてください。「男」である前に、「女」である前に「わたし」は「わたし 」です。それ以上でもそれ以下でもない。


カテゴリー間の「平等」が達成されなければならないことは百も承知です。しかし、それは各個人がカテゴリーに束縛されていることを所与としていることも意味します。


カテゴリーから一歩抜け出して、個人が「自由 」になること、そのうえで個人間の機会の差異を埋め合わせして「結果の平等」を実現すること、ここまで来てようやく「平等」という言葉が正確な意味を持ってくるのではないでしょうか。


男でも女でもない、ジェンダー的カテゴライズから離脱した「わたし 」、この「わたし」たちがより良い社会を創っていく。そうした意識を「わたし」たち皆で共有していくことが大切だと思うわけです。(タイトル回収!)


しかし、理論と実践の間のギャップはそう簡単に埋まる訳では無いことはわかっています。何より僕自身、これまでの人生を性二分法的ジェンダー規範に束縛されて生きてきました(というより現在進行形でしょうか)。


それでも、関わり方や接し方における形式的な差異を設けてきたのみで、差別に繋がるようなステレオタイプ化や扱いの不平等は決してしないようにしてきましたし、これからもそうするつもりです。


まあ僕の話は(僕も含め)誰も興味が無いのでここら辺にして、まとめれば、


男女間の「結果の平等」は達成されるべきだが、それ以上に各個人がそうしたジェンダー・カテゴリーから離脱し、ただ一人の「わたし」として「自由」になった上で、一層の「平等」を求めていくべきだ、といったところでしょうか。


さて、前回・今回と続けてジェンダー問題について思いをつづってきた訳ですが、やはり長すぎましたかね。レポート1本書けてしまいそうです。読んでくださる人、いつもありがとうございます。


それでは。

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