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置かれた場所で咲きなさいとかキレイごと言ってんじゃねえ

実家のある田舎でいわゆるスクール・カーストの最下位の小中学校時代を過ごす間に何度も自殺を考えつつもなんとか思いとどまった後の1983年、高校受験で遠方の高校(弘前高校)への越境入学に成功し下宿生活を始めたことにより、私はひとまず「自分に危害や侮辱を与えようとする悪意ある同級生がいない、安心して生きられる場所」へ脱出することができました。

さらに1986年には東大の理科Ⅰ類に合格して上京し、普通ならここから自由な学生生活を満喫しよう! となるところですが、実は大学入学後はしばらく死んだような生活を送っていました。

別に健康状態が悪かったわけではないものの、大学に行く気力がまったく起きず、食べて寝る以外は好きな本やマンガを読んでいるだけのような毎日。半引きこもりという感じです。「試験だけは要領よくクリアして単位ゲットする」ような器用さもなく、結局留年→中退することになります。まあこのへんの話はまた機会を改めて書くことにしましょう。

途中の経緯をすっとばして今回の本題に入ると、大学中退の3年後(たぶん)のある日、私は当時会社の同僚で仲が良かったN君の部屋でサシ飲みしていました。「会社」というのは私が大学中退後に入った独立系ソフトウェア会社、N君は同期の1人で年も同じぐらい。話題は「会社を辞めるのはやめとけ」という話。要するに私がその会社も嫌になって辞めようとしているのをN君が引き留めているという構図でした。そこでN君はこう言うわけです。

「会社なんてどこも同じだよ。辞めたって、いいとこなんか見つかんないぜ」

……いや、N君、悪いけどそれは同意できない、と私は思いました。彼は、今いる場所でベストを尽くすべきだというわけです。チルチルミチルが旅をして探した青い鳥が実は自分の家にいた、という童話/寓話みたいなもので、本当のお宝は足元にある、と。給料が上がらないのを環境(職場)のせいにして「世の中にはもっと自分にあった仕事/職場がある」とかなんとか夢みたいなことを言ってるんじゃなく、今居るこの場を良くするために何ができるかを考えるべきだ、と。

当時は私はN君の意見には納得できませんでしたが、今ではおそらく彼の言うことにも一理あったのだと思います。一理というよりは、職場に不満を持って辞める人間が結局次も同じことを繰り返すパターンはよくあります。実際、そのときの私もまさにそのパターンにはまっていたので、彼の意見は今から思えば妥当だったし、そんな私をわざわざ引き留めてくれる彼はいい奴でした。

でも、その意見に当時は納得できなかったし、実は今でも「一理ある」とは思いつつも「一理しかない」とも考えています。いつもいつもその論理が通用するわけじゃない、と。

なぜかって? 私は本当に「逃げ出す」以外にどうしようもない場合があることを体験してきたからです。

小中学校までと高校以降ではまったくの別世界で、自殺願望を繰り返した小中から高校へと「逃げ出す」ことで私は生き延びることができました。小中学校が「今居る場所でベストを尽くす」べき場所だったとは今でもまったく思えません。もし人生をやり直せるならあの9年間は完全にリセットするでしょう。

「今居る場所でベストを尽くせ」というのは現状肯定したい側にとって都合がいい理屈でもあります。似たようなことを中学時代に学年主任がよく言っていたものです。

「この学校には運動部が4つしかありません。僕には他にやりたいことがあるので、退部します」
「ないものを求めても仕方がないだろう。今ある中でベストを尽くすべきだ。君は部活を途中で投げ出すつもりなのか?」

という感じのセリフです。既存の体制を壊さずに組織をコントロールできるので、現状肯定したい人々がよく使います。(N君がそうだったという意味じゃないですが)
でも、その結果起きているのが、「組織の中から変えようと思ったけれど、もう無理」と思った人々による退職ブログの続出だったりするわけですが。

「置かれた場所で咲きなさい」・・・なんて、冗談じゃねえ、です。あんたそのセリフを、自殺しかかってる人間に向かっていえるのかよ? ってなもんです。人間はもっと多様なものであり、職場Aではまったく鳴かず飛ばずだった人が職場Bでは大活躍する、ということはこれからますます増えていくでしょう。別に転職を勧めるわけではありませんが、「置かれた場所で咲く」「今いる場所でベストを尽くす」のが本当に良い選択なのかどうか、一度は自分自身でよく考えてみることをおすすめします。案外そういう価値観を誰かに植え付けられていただけかもしれませんよ。


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