雑誌『會計』の休刊と「日本型会計学」の終焉⑤戦前編Ⅲ 企画院「製造工業財務諸準則草案」
戦前編Ⅲ 企画院「製造工業財務諸準則草案」
今回は,「会社経理統制令」と 企画院「製造工業財務諸準則草案」を取り上げます。なお,引用の一部については,表記を改めています。
①「会社経理統制令」と 企画院「製造工業財務諸準則草案」
陸軍は,1939年10月19日に,「軍需品工場事業場検査令施行規則」(陸軍省令)を発布しました。この「軍需品工場事業場検査令施行規則」の別冊として作成されたのが,「陸軍軍需品工場事業場原価計算要綱」でした。そして翌年,海軍が「海軍軍需品工場事業場検査令施行規則」(海軍省令)を発布し,海軍購買名簿に登録された工場または事業場の事業主は,「海軍軍需品工場事業場原価計算準則」に従って軍需品の原価計算を行うことが命ぜられました。その結果,以下のような問題が生じました。
「陸軍の監督官は陸軍要綱に従ってこれを作らせるし,海軍の監査官は海軍準則によることを主張する。それで両方に関係を持った或る工場では,二つの実施手続を作って,監督官,監査官のそれぞれへ別なものを見せたとのことであった。」(太田1968,158頁)
「陸軍要綱」と「海軍準則」との設定とその強制は,両当局者のセクショナリズムのあらわれであり,受注者たる民間企業は,二つの異なる原価計算を同時並行的に実施することを余儀なくされるという不都合な事態に直面していました。そうした中,財務管理委員会の作成した「製造工業原価計算準則」を改正して,新しい原価計算に関する統一的基準を設定し,陸海軍の原価計算に関する要綱または準則を廃止すべきであるという「中西構想」が提示され,それについて関係者の同意が成立しました。
この同意のもとに,「中西構想」が次のように展開されました(黒澤1980,p. xvii- xviii)。
(1)企画院に原価計算ならびに財務諸表統一協議会を設置し,「製造工業原価計算要綱」ならびに「製造工業財務諸表準則」を設定すること。
(2)企画院「製造工業原価計算要綱」の作成によって,陸海軍の原価計算に関する要綱または準則を廃止し,財務管理委員会の「製造工業原価計算準則」はこれに吸収すること。
(3)企画院「製造工業財務諸表準則」の作成によって,財務管理委員会「財務諸表準則」はこれに吸収すること。
(4)企画院「製造工業原価計算要綱」を全産業に対して実施するための法的基礎として,閣令をもって「原価計算規則」を制定すること。
(5)「原価計算規則」および「製造工業原価計算要綱」に準拠して,すべての主要産業について,業種別原価計算準則を作成すること。
(6)業種別原価計算準則に準拠して,すべての鉱工業会社は,自主的に会社別原価計算手続を作成し,これに基づいて原価計算を実施すべきこと。
上掲の「中西構想」に基づいて,旧財務管理委員会委員の全員(吉田良三,太田哲三,長谷川安兵衛,黒澤清その他の各委員)は,企画院統一協議会に参加し,中西寅雄,鍋島達等と協力関係に入りました(黒澤1980,p. xviiーp. xviii)。そして1941年8月に企画院「製造工業原価計算要綱草案」(以下では企画院「要綱草案」と略称します),同年12月には財務諸準則統一協議会によって「製造工業貸借対照表準則草案」,「製造工業財産目録準則草案」および「製造工業損益計算書準則草案」が公表されました。これらを総称して以下では企画院「製造工業財務諸準則草案」とし,企画院「財表準則草案」と略称します。
上記の目的に加えて,「価格等統制令」施行の本来,前提となるべき原価計算制度の整備もこれに便乗することになりました。そのため後に企画院「要綱草案」がその別冊として法的基礎を得る「原価計算規則」は,閣令・陸軍省令・海軍省令第1号として公布され,またその第1条には,以下の規定がありました。
「価格統制令第10条,会社経理統制令第36条第1項または軍需品工場事業場検査令第4条の規定に依る原価計算に関しては本令の定むる所に依る。」
また,1931年(昭和6年)の商法改正要綱では,様式統一が計画され,1938年(昭和13年)の「商法中改正法律施行法」第49条では「株式会社の財産目録,貸借対照表及損益計算書の記載方法,其の他の様式は命令を以て之を定む」と規定されていました。しかし,なかなか成案を得られず,企画院「財表準則草案」に合流することになりました。すなわち,企画院「財表準則草案」は,「会社経理統制令」第36条の閣令であると同時に,商法上の決算書類の様式制定について,商法も便乗するものになりました。
ドイツでは株式会社等に対する資産評価規定,計算書類様式の統一化,外部監査導入が,1931年改正株式法で一部実現し,1937年株式法で整備されました。これらは,本来商法の課題であり、「積み残し」の問題でしたが,日本では,結果的に,それらの解決の一部が「会社経理統制令」に便乗して図られることになったのです。
②企画院「製造工業原価計算要綱草案」と「原価計算規則」別冊「製造工業原価計算要綱」
上述の「中西構想」に基づく「製造工業原価計算要綱」の草案が企画院財務諸準則統一協議会によって準備されました。そして,1942年(昭和17年)4月,閣令・陸軍省令・海軍省令第1号として「原価計算規則」が公布されました。企画院「製造工業原価計算要綱草案」は,その別冊「製造工業原価計算要綱」(以下では別冊「要綱」と略称します)として法的基礎を得ました。別冊「要綱」の構成と内容は,企画院「要綱草案」とほぼ同一でした。
「原価計算規則」第二条に基づく、確定した業種別原価計算準則は、以下の31種でした(日本公認会計士協会25年史編纂委員会1975、164頁)。なお、雑誌『會計』には、「業種別原価計算準則」の一部、後述の雑誌『原価計算』には「業種別原価計算準則」の解説が掲載されていますが、下掲の表ではそれを合わせて示しています。
告示年月日 『會計』 『原価計算』
(昭和) 掲載巻号 解説掲載巻号
装軌車両製造工業 17年12月23日 第52巻第2号 第3巻第2号
火砲製造工業 同上 第54巻第6号 同上
製鉄業 17年12月29日 第52巻第2号 第3巻第3号
電線製造工業 18年2月17日 第52巻第3号 第3巻第4号
ピストンリング製造工業 同上 同上 同上
造船工業 18年2月24日 第52巻第4号 第3巻第5号
航空機製造工業 同上 同上 同上
電気機器製造工業 18年3月3日
通信機製造工業 同上 第3巻第4号
信管製造工業 18年3月10日 第3巻第6号
プロペラ製造工業 18年3月24日
麻紡織工業 18年4月21日
石綿スレート製造工業 同上 第3巻第7号
パルプ及び紙製造工業 18年5月12日 第53巻第2号
アルミニウム精錬工業 18年5月19日 第54巻第1号 第3巻第8号
石炭鉱業 18年6月16日 第53巻第1号
工作機械製造工業 18年6月17日 第53巻第5号 同上
ゴム布製品製造工業 18年7月6日
ゴムタイヤ製品製造工業 同上
工業用ゴム製品製造工業 同上
機械染色工業 18年7月28日 第3巻第10号
醤油醸造工業 18年8月7日 第3巻第11号
光学機械製造工業 18年8月20日 第3巻第10号
光学硝子製造工業 同上
自動車製造工業 18年8月21日 第53巻第3号 同上
自動車車体製造工業 同上 第53巻第3号 第3巻第11号
綿・スフ紡織工業 18年8月31日 第53巻第4号 第3巻第10号
銃器製造工業 18年9月2日 第3巻第11号
写真感光材料製造工業 18年9月7日 同上
計器製造工業 同上 同上
軽金属製造工業 同上
「軍需品」というと武器等のイメージがあるかもしれませんが、その範囲は、上掲のように軍の衣食にも及びましたし、軍需産業は、当時の産業の中で大きな割合を占めていました。また、飛行機や軍艦などは、一部は軍の工場で作られていましたが、民間でも作られていました。例えば、戦艦大和は呉の海軍工廠で作られましたが、同じ型の戦艦武蔵は長崎の三菱造船で作られました。
企画院財務諸準則統一協議会の黒澤清は,後に当時を回顧して次のように述べています。
「これらの業種別原価計算委員会に参加した実務家たちは,非常に真剣であり,彼らのもてる全経験をわれわれに提供して,二年余にして数百に上る業種別原価計算準則をつくり上げたのであった。
私は,この偉大な事実を原価計算に関する大規模な実験と呼ぶことにした。1940年代はまさに,大規模な原価計算の制度的実験の時代であった。」(黒澤1980,p. xxv)
原価計算準則整備と同時に原価計算制度の啓蒙・普及のために,1941年(昭和16年)9月に日本原価計算協会が設立されました。同協会編集による雑誌『原価計算』は,1942年(昭和17年)12月に創刊されました。また,同協会は,原価計算に関する研究会,講習会,後援会のほか,「原価計算展覧会」を各地で開催しました。さらに,原価計算係臨時養成所や原価計算相談所が開設されました。
原価計算運動は,「大規模な原価計算の制度的実験」と呼ぶにふさわしい壮大なものでした。
③企画院財務諸表準則草案
1941年(昭和16年)12月には財務諸準則統一協議会によって上述の企画院「財表準則草案」も公表されました。
企画院「財表準則草案」は,その名称から明らかなように,適用範囲が製造工業に限定されていました。企画院「財表準則草案」は,「会計経理統制令」第36条にいう閣令として準備されました。その後に公表される予定であった財産評価と減価償却に関する準則(後者は,1942年に閣令「会社固定資産償却規則」として成立)と共に統一的計算制度の確立を目指し,統制経済の運営に資する計画でした。
企画院「財表準則草案」は,結局,法的基礎を得られませんでしたが,任意適用を前提とした商工省「財務諸表準則」とは異なり,強制適用を目指した当草案には興味深い点が沢山あります。商工省「財務諸表準則」の様式と比べて最も明確な相違は,企画院「財表準則草案」の様式が簡略化されているという点にありました。
④「会社固定資産償却規則」
「会社経理統制令」(1940年)の規定の内,財産目録その他書類に関する第36条および勘定科目等に関する第37条の他,固定資産の償却に関する第31条の施行は延期されていました。第31条の発動については,それによって多大な償却増を会社に求めることになると,利益が減り,配当が減って,その結果株価が下がるという影響がありえました。そのため,1941年(昭和16年)の株価の情勢が悪い局面では発動できなかったといいます(伊原ほか1942,21頁)。
その後,1942年(昭和17年)の6月30日の閣議において第31条発動という方針が決められ,「会社固定資産償却規則」(閣令)が9月1日公布,即日施行されました。法令の形態としては,「会社経理統制令施行規則」の改正の形式を採らず,単独の規則として制定されました。
適用対象会社は,建前としては総ての会社とされましたが,附則によって資本金500万円以上の会社に限定されました。
⑤「日本型」会計制度の成立の特徴
「日本型」会計制度の成立の特徴として、学界の関与を挙げることができるでしょう。商工省財務管理委員会の小委員会メンバーや企画院財務諸準則統一協議会の顔ぶれにも明らかです。それは、後発国ゆえの特徴ということもできるでしょうが、商工省準則の草案である各未定稿が雑誌『會計』という媒体を通じて公表されたことに始まり、「製造鉱業原価計算要綱」に基づく業種別原価計算準則、原価計算実施手続の作成・整備について、様々な点で学界が「日本型」会計制度の成立に関与しました。
具体例として、「会社経理統制令」(日本会計研究学会1941参照)、「製造工業企画院財務表諸準則草案」(日本会計研究学会1943a参照)、「鉱業原価計算要綱」(日本会計研究学会1943b参照)そして「改正製造工業原価計算要綱」(日本会計研究学会1944参照)がそれぞれ、日本会計研究学会で統一論題として議論されました。それらは、単に学会での議論に留まらず、例えば、「会社経理統制令」の会社経理審査委員会委員でもあった太田哲三は次のように述べています。
「私は幸い審査委員会の方へ出て居ります関係上、会社部なり、監査課或いは配当給与課(以上、当時の大蔵省の部局:筆者注)の連中と懇意にして居りますから、お言伝と云うような意味合いで皆さんの御意見は向こうへ述べることができると思います。」 (日本会計研究学会1941、59頁)。
文献
伊原隆ほか1942「固定資産減価償却研究座談会」『原価計算』第2巻第10
号。
太田哲三 1968『近代会計側面誌-会計学の六十年-』中央経済社。
黒澤清1980「中西寅雄と日本の原価計算」(中西寅雄1980『中西寅雄経営経
済学論文選集』千倉書房所収)。
日本会計研究学会1941「〈円卓討論〉会社経理統制令」『會計』第49巻第4
号。
----1943a「〈円卓討論〉製造工業企画院財務表諸準則草案」『會計』
第52巻第2号。
----1943b「〈円卓討論〉鉱業原価計算要綱」『會計』第53巻第6号。
----1944 「〈円卓討論〉改正製造工業原価計算要綱に就て(1~2)」『會
計』第55巻第1,2号。
日本公認会計士協会25年史編さん委員会1975『会計・監査史料』同文舘出
版。
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