見出し画像

アムステルダムで考えたこと アムステルダム(オランダ)~アントワープ、ブルージュ(ベルギー)~ロンドン(イギリス)の道すがら ① <旅日記第56回 Nov.1995>

 12月(1995年)になろうとしている。ヨーロッパの旅が終わりに近づいてきた。1月にはロンドンからアメリカ東部のボストンに飛び、あとは大陸を西へ西へと進み、西海岸のシアトルから帰国することになる。

寒いが仕方ない。先にイギリスに行っておこう。 

 さてと、11月初めのドイツ北部の寒さに恐れをなして南に待避するようにイタリアに向かい、イタリアからは南フランスを通り抜けスペインに行こうとしたところで、フランス国営鉄道のストライキに出くわしてしまった。
フランスはヨーロッパの中でとても大きな国で、スペインに行くピレネー越えのルートはヨーロッパのどこから攻めてもフランスに遮断されている。どうやら1か月も続きそうなこのストが終わるのを待つ間、順番は逆になるが、ヨーロッパ最後の国と考えていたイギリスに渡ることにしよう。

ストの影響で舞い戻ったオランダだが、大好きな街・アムステルダム

 ストの影響でダイヤが乱れに乱れた国際列車は、26時間がかりでなんとかわたしをオランダの首都アムステルダムに連れて行ってくれた。オランダ、そして、イギリスへ向かう高速船の港のあるベルギーは、11月初めのドイツのようなことはなく、適度な湿り気もあり温暖だった。

画像2


 アムステルダムは、10月2日にヨーロッパに到着した最初の都市であるので、2か月ぶりに舞い戻ったかたちになる。とても懐かしい気がした。アムスは『地球の歩き方』には駅付近はドラッグがはびこり、たむろしている人が非常に危険で、特に王宮広場あたりは泥棒の巣だからくれぐれも用心するよう、散々な書かれ方をしていたけれど、わたしはこの都市にとても好い印象を持っている。

 この国の人々はとてもカジュアルでフレンドリーなのだ。

画像5

 ドイツ、オーストリアの堅さをほぐした感じで、イタリアほど弾けすぎずーーという具合だ。それに加え、「自由な国という意識が強いようにも思った。

 わたしの体験では、シンガポールからのKLMオランダ航空の機内で入国カードを求めたときも、客室乗務員は「オランダはフリー・カントリー。入国カードは不要なのよ!」と、とても誇らしげにきっぱりと言った。空港の入国審査も無いに等しく、ゲートを通り抜けるだけだった。陸路のヨーロッパ域内ならともかく、遠くアジアからの来訪者に対しても、パスポートにスタンプを押さなかったというか、パスポートを見ようともせず、空港の入管ゲートを通った。まるで駅の改札を通るがごとくだった。いまのようにテロへの心配が高まると、そういうわけにはいかないだろうが、1995年当時はそんなふうだった。

 そして、ユーレールパスというEU域外の国籍の者に特権が与えられているヨーロッパEU域内の鉄道乗り放題定期券(わたしが買ったのは3か月有効)を初めて使う乗り始めの際には駅の窓口で日付を記載してもらわなければならなかったのに、うっかりとしていて、列車に乗り込んでしまった。車掌さんが切符の確認にきたとき、そのことに気づいた。

 しかし、車掌さんは、「きょう、オランダに着いたのだからきょうが初乗りだということが“証明”されています」とニッコリ顔で、しゅるしゅると「10月2日」の日付と空港駅の駅名を書き入れてくれた。なんでも善意に解釈してくれるのだ。

画像2

 当時(今はどうか知らない)のヨーロッパでは都市間の国際列車に乗るときは切符の有る無しのチェックのないまま改札を通り、車内で車掌さんがパスポートチェックを兼ねて検札して回っていた。地下鉄やトラム(路面電車)ではそれもないばかりか、改札で切符の回収もない。乗客はみな正しく切符を買って乗車しているものと見なす社会規範(おそらくキリスト教精神に根ざしたものではないかと思う)のもとでシステムは回っている(ごくたまに車掌が回ることはあるらしい)。このような仕組みの駅だったので、駅の窓口に行って、チェックしてもらうのを忘れ、そのままホームに入って空港からアムステルダム中心部に行く列車に乗ってしまったようだった。

 もし、これが、あの時代のポーランドなら・・・。

 もし、これが当時のポーランドやチェコのように、旧ソ連の配下の社会主義体制から抜け出したばかりで、国家の基幹産業だった鉄道で働いていた人たちは規則に杓子通りの運用しかしない旧東側の国々では、決してオランダのようには行かないことを、細かいことながら身をもって体験することになる。
プラハの駅では荷物預け所に荷物を預け、お金を払った直後、荷物から出し忘れたモノがあるので出したいと言ったら、いったんそこで預け入れ契約が終了し、もう一度荷物を渡した時点で新たな契約が発生したことになり、もう一度、代金を支払わされた。ワルシャワ駅では言葉が通じないと思って「午後11時発 ベルリン行き」と書いたメモを窓口で見せたところ、「そんな列車はない」と高飛車に言われたので、「ここに書いてある」と時刻表を見せると「それは23時だ」とロビーに響き渡る大声で怒鳴られ、わたしのメモを突き返してきた。

 こんなサービス環境の中で日付の記入漏れのまま列車に乗っていたら、そらおそろしい。わたしの3か月間有効の鉄道パスは違反となり、使用初日に没収され、無賃乗車として処罰を受けていたことだろう。これらとは対極にあって、利用者側の利益になるよう公的サービスのありようを考えてくれているのがオランダという国だと思った。

都会なんだけどゆったりしていて、自由な風が吹く

 アムステルダムは、この都市の秋の空気感のように、人々のさっぱりとした笑顔(なぜかカナダの人と似ている)が心地よかった。英語の話せない人はいないようだし、みんな、とてもわかりよい英語を話す。この国では英語さえわかれば不自由しない。

 都会なんだけれど、王宮のある中心部でさえゆったり感が漂い、クルマよりも自転車が多いせいか、街中に日常の生活感があふれていた。この街にいるとついわたしもここに暮らす住民の感覚で過ごせてしまう。とりすました人よりも身の丈にあった暮らしを身上とする大人の多い都市。やはりそれはエリートでもだれでも通勤や買い物など日常の足として自転車を利用している人が多いこととおおいに関係しているのではないか。

画像3


 安定感いっぱいの頑丈な自転車の前と後ろに子どもを乗せた若いお母さんに、写真を撮らせてほしいと頼んだときのさわやかな笑顔。

画像4

 テイクアウト専門のお店の女将さんやご主人さんに道を尋ねたときの気持ちのよい、さりげない親切。気取らずにビールを飲めるまちなかのパブ。

画像6

 10月に泊まったのと同じ、個人経営の朝食付きの小さなホテルに再び逗留した。2階の部屋のベッド越しのガラス窓の前の街路樹、半地下の食堂から見上げたところに見える歩道を歩く人々。建物の中にいても、深まりゆく秋という季節の空気感のしっとりさと、街を歩く人々のざわめきが不思議に同居している感じを味わえる角に突き出た部屋がすっかり気に入ってしまった。

画像7

 ホテル2階の窓辺で街の風景とほとんど同じ高さで眺めながら、晩秋のもの思いをする自分とは別に、窓越しの通りの反対側には「Heineken」(ハイネケン・ビール)の本社(たぶん)の茶レンガの建物が見え、街中のいたるところの「Heineken」マークのオープンカフェを見つけてはそこに引き寄せられ、カフェのテーブルから街角にカメラを向けたり、メモのような日記を綴ったりした。         (1995年11月27日~28日)
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?