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罪と表現と愛

作品に罪をみること

小山田圭吾の過去にまつわる諸問題を耳にした僕の第一の感想は、「彼の曲を嫌いになりたくない」というものだった。そして僕は、「作品に罪はないから」という考えを付け加えた。感情に後付けする理由はしばしば、立証に必要な根拠というよりも正当化のためのスパイスである。本来こういうものに理由なんてない。

小林賢太郎が退任したときも同様の感想だった。小山田を批判して小林を擁護する人が、好みで人を攻撃しているように見えた。作品が好きだから小林を擁護しているんじゃないのか。作品の良し悪しで人の罪をはかっていやしないか。われわれは罪を犯していないのか。

作品が免罪符になることは、人の罪が作品を貶めることよりも重く映った。僕はBlind Melon, 下津光史, 犯罪を犯した数々の芸術家に救われている。

空手でも表現でも、僕は誰かにカウンターで殺されることを期待して技や言葉や作品を放つところが少なからずある。あるとき、同期の「作品に罪はないというのはあたらないと思う」という言葉で、僕は後付けの理由に対する違和感を自覚した。作品にも罪があるかもしれない。では僕は何を言いたかったんだろう、と考える機会に恵まれ、筆を執っている。

罪人を愛すること

小山田や小林の作品を好きでい続ける。それは彼らの罪と作品に関係がないからではなく、彼らの罪と、彼ら(と作品)に対する僕の愛に関係がない(少なくともそうあろうと思う)からだと思う。

作品から得た救いを、作者の犯罪によって作品もろとも否定したくない。犯罪者に救われることを負い目に感じたくない。カンダタに救われた蜘蛛を清らと思いたい。蜘蛛を救ったカンダタと、蜘蛛の糸を切ったカンダタの同一性を直視したい。

「氷点」で三浦綾子が問うたように、罪と愛とを自らに問いかけたい。
しかしそれらの思いが、表現と政治、人格、罪のつながりから目を背けさせることもあるという気づきに、恥じ入るばかりだ。

他人のために怒ること

誰かが苦しんでいるときに、その人のために僕ができるのは、ものを与えること、話を聴くこと、祈ることくらいだろうか。他人のために怒ること、これは今の僕が最も苦手とすることだ。だから、僕は政治家や法律家にならなかったと言えるかもしれない。

病を憎んで人を憎まないこと。こころを病む人の人間性を信じてつかむことがしたくて、精神科を目指しているともいえる。傷つけるひとのこころが分かれば、赦せるかもしれないと思うからだ。今まで大事な人々につけられたいくつかの傷を赦せたように、これからも赦せるかもしれないと。そうすることで僕は、赦した相手からこそ救われて、今を生きているから。

他人のために怒れる医者も勿論おり、僕には当分できそうにないと、羨望とも隔意ともつかない気持ちで彼らを見ている。

死のなかで考えること

一本の突きを放つとき、僕は僕より弱いある種の人間を殺し、僕よりも強い大量の人間に殺されている。目の前の相手が弱かった時も、僕は殺されているのだと、打ち合いに負けるたびに思わされる。敗北から学ぶことは多い。人は死に面した時しか考えられないからだ。

考えることを始めたとき、僕は死に近づいたんだと、思春期の終わりをはかなんでいる。

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