読書チャレンジ#60 ケアとは何か
病むとは、孤独であるということであり、自分の孤独の中核であるものを和らげられないこと、あるいは、ほかの人に伝えることさえできないことである。この定義に沿っていうなら、ケアはやむひとのと共にある営みであって、治すことを試みることでは必ずしもない。むしろコミュニケーションを絶やさない努力だ。治療がもはや効力を持たなくなった場合においても、ケアのコミュニケーションは続く。
【体が動かない人のサイン】
ALS患者を専門に介護するヘルパー山田康子さんの語りである。
・難しいですね本当に。具体的にどんなふうになっているかというと、その方って眼球がもう動かない。動きがかなり落ちてきていて、まぶたも随意的にぱっと開けられる状態ではなくなっているので、少しだけ上まぶたを介護者が黒目が見える程度に開けてあげて、文字盤に『あかさたな』、『はまやらわ』を打って、二択をまず提示して…透明の文字盤みたいなものに、マルとバツでくくって、『マルだったら、上に黒目を上げてください』というやり方で、黒目がふうって上を向いたら、イエスと取るんですね。でも、それに合わせて必ずしも上がるとは限らないですね。だから何度も…『うーん、分からない。もう1回訊きますね。』というような感じで延々とやっていくんですね。それで『あかさたな』のほうだったら、『あかさ』と『たな』で二択をつくって、というふうに、二択と二択でこう切っていくんですね。だから、本当に10文字ぐらい読み取れるのに、たぶん三時間とかかかりますね。
【“からだ”に耳を傾ける】
主に眼差しや声、ふるまいなどで表現されるサインは、当事者からケアラーへ向かうベクトルであり、その人の力である。対して、かすかなサインを受けとる感受性は、ケアラーの力だ。その感受性は相手の『からだ』と生命を感じ取る働きを基盤にしている。それよりはっきりするのは、極端な形を取るコミュニケーション、すなわち、自発的にサインを出せない人とのコミュニケーションである。そこでは発せられているかどうかも分からないサインを受け止めるための集中力と感受性が必要になる。まず求められるのは、その人の『からだ』に耳を傾けることだ。身体をモノとして扱っているうちは、いくら身の周りの世話をしていたとしても、当事者の生命を尊重しているとはいいがたい。そして、その『からだ』から『声』を感じ取ることができたとき、単に生存しているという事実を超えて、何らかの意味をケアラーは当事者から受け取ることになる。
看護師Bさんの、例えば医師らが返事を見せてほしいと言ったときのように、『他の人がいる前でやるのは話じゃなくて声かけ』という語りの中に如実に表されている。Bさんにとって、『話』と『声かけ』は違っている。『声かけにも反応返ってくるときはある』が、話は、まさにいつもBさんが患者の傍らで行っている営みであって、『なんかね、人間として、人間と人間とでね、本当にね、あなたと話したいって感じで…』、『自分の気持ちとかそういうのものを交えて告白するみたいな感じで』で行っていることなのである。そのときの瞬目(まばたき)は、『目に力が入って』おり、『意気込みが違う』、『気持ちがのっている』ように『伝わってくる』という。つまり、植物状態の岡野さんとの話の中から自然に押し出してくる訴えかけが、そのときの瞬目には宿されているのである。それが『瞬目反応とかあまり出してくれない患者さん』のまばたきに『本音』を感じさせるのではないだろうか。一方、声かけ、『単発的にこちら側からかけた、…挨拶とか、何とかしますよ、いいですか』のようなやり取りだという。医師に岡野さんの返事を『見せてよ』と言われているのは、この声かけである。
相手を見ないということは、『あなたは存在しない』というメッセージを送ることです。人は他者から『見てもらえない』状態では生きていけません。したがって、ケアを受ける人に『あなたは、ここにいるのですよ』というメッセージを送り続けることが重要であり、これがユマニチュードの原点です。
意識が戻ることがないであろう人も、声をかけることで決して独りにしない。このようなコミュニケーションに向けての強い意思は、患者から医療者への信頼を支える。相手からのサインが発せられないとしても、声をかけることによってケアラーの側から『出会いの場』を開くのだ。
【相手の声に耳を傾ける】
相手の立場に立って話を聞く行為は、語り手と聴き手双方にとってのケアとなりうる。聴き手にとっては、経験を共有することで、今まで蓋をしてきた自分自身の経験に言葉が与えられ、自分が一人ではないことを認識することにつながる。そのことは、話を聴いてもらっている語り手にとっても大事な意味を持つ。聴くことはケアすることでもあり、ケアされることでもあるのだ。
【拘束・隔離】
『安全のためにミトンを使った』厳しくいえば、このときの看護師の選択は、医療的安全性は満たしていたかもしれないが、当事者の気持ちに立つケアとしては不十分だったのではないか。都立松沢病院の拘束削減の取り組みが話題になっている。『身体拘束しない』ことへの同意書を家族から取る。『患者さんは転ぶんだ』、『なぜ転ぶのか、患者さんは何がしたいのか考えよう』という認識に至った。その空気が醸成されていくと、みんなで『もっと患者さんに動いてもらおう』という気持ちになってきました。寝かせきりにするのではなく、離床してもらうことで、患者さんの活動性が高まりました。拘束を外してみても問題ない患者さんが多かったことで、『今まで何のために拘束していたんだろう』、『私たちの安心のためだけにやっていたのかね』という先輩の声を聞いて、取り組みの意味を実感しました。
【念願の自宅。安らぎが戻る】
入院中は、夜になるとせん妄が出て、こちらの話が全く理解できないと看護師を困らせていた、しかし、家に帰るとぐっすり眠れ、せん妄も一度も起きないで過ごせた。食欲がまし、むしろ日ごとに元気になった。妻も調理に予想外の忙しさですと笑う。
【『小さな願い』と落ち着ける場所】
ある末期ガンの患者の看取りの事例。
私は彼女から何度か『先生にお任せします』といわれたことがあった。しかし、一度たりとも私が結論を決めたことはなかった。医師として客観的な事実を伝え、しかし同時にその場を客観視することなく、本人や家族とともに答えのでない現状と向き合い続けた。彼女が自らの人生の最期に満足していたかどうかはわからない。しかし、少なくとも私を含め関わった人たち全員が、その時々で微妙に変化する彼女の意思を感じとろうとし、繰り返し話し合いを続け、選択を重ねたことは事実である。
医師から何かを答えを出すことがないだけでなく、患者自身が結論を出さなかったとしても、迷いなく続けるなかで家族や医療者が話し合うことに意味があるという主張。
私自身、2011年から看護師の皆さんへの聞き取りを進めるなかで患者本人が望むことを尊重する重要性を学んできた。『小さな願い』を言葉にする手伝いをすること、そしてそれを叶えようと努力すること。このことが、医療的選択の手前でケアの営みの重要な要素をなしていた。終末期医療に限らず、『小さな願い』は人生のかけがえない価値である。日々の『小さな願い』の積み重ねが、その人自信を形作る。そこでは、医療の規範に縛られない柔軟性が求められる。
【聴くことの意味】
苦しんでいる人、悲しんでいる人に対して、『心にかけていること』を表すためにできることは何でしょうか。それは、『聴く』ことです。相手の人の悲しみを聴くと、その時はやはり、悲しい気持ちになったり、辛い気持ちになったりします。けっして楽なことではないかもしれません。ただ話し手の悲しみの水脈からあふれるものが、あなたの中に流れてくる時、あなたの心も悲しみの共感で満たされるのです。話した人の心は、聴いてくれたあなたのやさしさで潤うでしょう。
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