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ヒットミーの新選組ナビVol.2

こんにちは!今回は新選組局長、近藤勇の出生から斬首までの生涯を書いていきます!

[第一章ー 出生から試衛場入門まで]

近藤勇は天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれました。幼名は勝五郎、後に勝太と改めます。

久次郎には勝五郎の他に、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎(音次郎)、次男・粂蔵(くめぞう、粂次郎、惣兵衛)がいる。ほか、祖父の源次郎がいました。天保9年の上石原村の宗門人別改帳に拠れば、宮川家は多摩郡大沢村(三鷹市)の龍源寺の檀家で、高七石一升二合の6人家族。

嘉永元年(1848年)11月11日、勝五郎は江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門しました。

勝五郎が入門した道場は「試衛館」として知られるが、多摩郡蓮光寺村(多摩市)の名主・富沢政恕日記および小島鹿之助『両雄士伝』に拠れば「試衛」は号で、「試衛場」と記されています。

翌嘉永2年6月には目録を受け、同年10月19日には近藤周助(近藤周斎)の養子になり、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る。

のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。安政5年(1858年)には日野宿(日野市)の牛頭天王社(八坂神社)の奉納額に「島崎勇藤原義武」と記しています。

万延元年(1860年)3月29日に御三卿・清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女である松井つねと結婚しました。

翌年8月27日には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなりました。

また、文久2年(1862年)には、つねとの間に長女・たま(瓊子)が誕生した。勇の死後、明治9年(1876年)に勇の長兄である音五郎の次男・勇五郎を近藤家の養子に迎え、娘・たまは勇五郎の妻となりました。

[第二章ー浪士組への入隊]

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