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宍粟三社No.2【伊和神社】

與位神社を後にし、車を揖保川に沿って北に走らせます。次の目的地は【伊和神社】ウチの従業員にここが気になるんですと写真を見せて貰ったのがきっかけで、天日槍が気になり、今はアジスキタカヒコネが最大の注目神に僕の中でなっています。いやが上にも気分は盛り上がります。


伊和大神考察

伊和神社の御祭神は伊和坐大名持御魂(いわにいますおおなもちみたま)となっています。合祀されているのは、少名毘古那、下照姫となっています。
大己貴命は播磨国風土記では、少名毘古那と国造りの旅をしているのですが、大己貴命が大国主と同一神と思われていたことが分かり、前回も言いましたが、光田先生は大己貴命と大国主命別神だと言われていますし、僕もそう思っています。伊和坐大名持御魂と言う無理矢理ひっつけたのか?と思われるような無理矢理感満載の神名です。

伊和神社 由緒


よく言われるのは伊和一族の土着信仰から、播磨国風土記の編纂時期には出雲神話と大和政権とが融合して、伊和大神と大己貴命とが国造りという共通点で一つに纏められたのではないか、と言うことです。
まぁ有りそうと言われれば何となくそうか〜と思ってしまいます。
でも、全く納得はいってません。では、誰なのか?
合祀されている、下照姫がヒントなのでは無いでしょうか?
奈良県御所市にある、高鴨神社にはアジスキタカヒコネと下照姫が祀られています、言わずと知れた鴨社の総本宮です。
もう一つ不思議なことは、伊和神社は北面しているのです。もの凄い違和感があります。神社ってほとんどが南面、もしくは東面しているのです、何故ここの伊和神社は北面しているのでしょうか?
伊和神社は宍粟市にありますが、播磨国風土記に賀毛郡(かものこおり)と言う名前が出てきます。北播地域のことですが、賀茂(かも)なのです、この地名でアジスキタカヒコネと無関係とは思えないですよね!そして北面している伊和神社、面白いですね!この続きは最後に!

伊和神社到着

ものの5分ほどで到着しました。道を挟んだ東側に、道の駅はりまいちのみや があり、そこに車を駐められます。

伊和神社 鳥居


叢林も凄い雰囲気を醸し出しています。ここの神社は1日にして林が出来、鶴が2羽止まっていたと神社の成り立ちが説明されています。
立派な叢林の中を進み、随神門をくぐり、左に曲がります。手水場があり、清めさせてもらいました。ここまで何も感じていません。

伊和神社 拝殿


手水場を過ぎ、拝殿が見えて来ました。かなり歴史がありそうな拝殿で、おお!凄いなぁと思っていると太鼓が鳴り始め、祝詞が始まりました。めっちゃ歓迎されているじゃないですか!少し嬉しくなりました。ただ、拝殿前まで来ても当然祝詞は終わっていませんので、小さな柏手で参拝しました。
ただ、ここでもいつものようなゾクゾクする感じはありません、本殿を見ようと左側から回り込んでみました。立派な本殿が見えて来ます、おや?ゾクゾク感が出てきました。本殿は何かを感じられるのです。
久しぶりの感覚でした、ただ、拝殿前では感じ無くて、本殿の見えるところまで来ると感じるのは、何か封印されてるのかもしれないなと思いました。

伊和神社 本殿

鶴と白鳥

先ほども書きましたが、伊和神社がここに創建された時のエピソードには、1日にして林が生い茂り、鶴が2羽とまっていた場所に建てられました。
ここで、思い出すのは、ほむつわけのみこと
垂仁天皇の皇子「ホムツワケ」は、髭が伸びる歳になっても言葉を話しませんでした。ところがある日、空を飛んでいた白鳥を見て、生まれて初めて言葉を発したのです。
喜んだ天皇が白鳥を捕まえさせると、ホムツワケが話せるようになりました。天皇はこれを喜び、「鳥取部(ととりべ)」 を設けました。
これは日本書紀の垂仁天皇の条に登場する話しです。一方アジスキタカヒコネも髭が生えるまで喋れず、三澤の水を飲んで喋れるようになるのですが、この話しが別の話として考える方が難しいと思います。
そして白い鳥が二羽登場するホムツワケと、伊和神社の由緒、一方は鶴で、一方は白鳥ですが、どちらも白い大きな鳥です。
播磨地方で鶴が居たのかどうかは分かりませんが、現在では見る事はないですね、白鳥は小白鳥ですが、今でも越冬に飛んできます。
ますます、伊和神社とアジスキタカヒコネとの関係が深い氣がしてきました。

伊和神社 拝殿の龍

北面神社

北側を向いている神社、それほど多くは無いと思うのですが、調べてみると結構有りました、以下に列挙します。
吉備津神社
厳島神社
鹿島神宮
丹生都比売神社
大国魂神社
宗像大社
他にもあるようですが、僕が行ったことの有る(宗像大社・鹿島神宮は無いです)神社を中心にしました。
北面と言って思い出すのは、後醍醐天皇ですよね、何故後醍醐天皇は、天皇は南面す言われる中で北面して埋葬されたのか?京都に戻りたかった後醍醐天皇は北向きに埋葬せよ!と言ったと言われています。
であれば、北面している神社は、御祭神が北向きにして欲しいと言った、もしくは北側に思いがあった、という事では無いでしょうか?
他の神社は別に考えるとして、伊和神社の北側に有るもの、出雲ですよね!
揖保川を遡って引原ダムを過ぎ、引原川をさらに北に行くと鳥取県に入るます。先の日本書紀ホムツワケの話しが残る鳥取県にたどり着くわけです!
播磨地方と出雲地方は川で行き来が出来たんです!
光田先生が仰っていたことの中に、久米族と安曇族の本拠は播磨にも有った、加西市には色濃く安曇族の痕跡が有るとも言われていました。その考察は又次の機会に!

次の宍粟神社は、安志加茂神社、ここは間違いなくアジスキタカヒコネですね、上鴨神社からの分霊とのことです。楽しみです!


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