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政治権力は悪なのか?

 先日、いつも言葉のあらしが吹き荒れている混沌の地であるところのぼくらのX(元Twitter)で、このような話題がありました。

 「日本のフィクション作品」は「公権力が悪役である作品が少ない」ということなのですが、はっきりいってひじょうに目の粗い話なので、これ自体はどうということはありません。

 じっさいのところ、反体制側が公権力を打倒する話も探せばいくらでもあるだろうし、現実にいくつものタイトルが挙げられている。

 そしてまた「多い/少ない」にはしょせん主観以上の基準がありません。さらにいうなら、何をして体制と呼び、反体制と考えるかも人によって違っているところでしょう。

 つまり、厳密な議論に堪える強度を持たない言説に過ぎないわけです。

 ただ、ここから派生していける話はちょっと面白い。「それでは、物語のなかで公権力、あるいは反権力はどのように描写されるべきなのか」というテーマですね。

 この問題、いたって当然ながら右翼、保守的な立場に立つか、それとも左翼、革新的な立場に立つかによって違ってくることでしょう。

 どこまでも左派的に、政府や権力はいつも悪いことを企んでいるので打倒しなければならないのだ!と考えるならたしかにいまの日本のフィクションは不満を感じるものであるかもしれない。昔から日本ではそんなに単純なものじゃないよね、という描写がなされてきたからです。

 そう、日本のフィクション(主にエンターテインメント)は、たとえばアメリカのそれとくらべたとき、極度に価値相対主義に寄ったところがあることはぼくは事実だと思うのですよ。

 その背景にあるものは、これはまちがいなく太平洋戦争での敗戦でしょう。それまで絶対にして盤石であるかのように見られていた思想が一夜にして無効化されるという経験が、多くの日本人作家たちの胸に「価値相対化」の心情を刻んだことは疑いの余地がありません。

 ここら辺のことを膨大な作例を引用しつつ検証したのが、ぼくが所属するサークル・アズキアライアカデミアの同人誌なのですが、ざんねんながらいまは頒布していません。近日中に電子版を発刊する予定なのでお待ちください。

 まあそれはともかく! 終戦以来、日本のエンターテインメント・フィクションでは、子供向けの物語であってすら、「絶対の正義」にゆさぶりをかけるような作品が頻出してきました。

 その最高傑作がたとえば『デビルマン』であり、あるいは『無敵超人ザンボット3』、ないし『伝説巨神イデオン』であるでしょう。これらの美しくも絶望的な物語は、視聴者のもつ正義の感覚を大きく鳴動させます。

 そもそも何が「善」で、何が「悪」であるのか? 正義を掲げて戦うことに意味はあるのか? いずれもきわめて感動的な物語ではあると思うのですが、エンターテインメントの本来のあるべき形が「勧善懲悪」、善が悪を懲らしめることであることを考えるとき、ある種の袋小路を意味していることもたしかだと感じます。

 長い物語を読み、見ていった末がしばしば善も悪もすべて皆殺しの全滅エンドではあまりにも救いがない。それはたとえば主人公が発狂して終わることになる『機動戦士Ζガンダム』のような作品で行き着くところまで行き着いた印象です。

 そこで描かれているものは「価値相対化」が行くところまで行った結果、エンターテインメントそのものが崩落してしまったかのような物語です。

 「善と悪は見方しだいでしかなく、ある正義もべつの角度から見たら悪となってしまう」ことはたしかなことではあるでしょう。また、「悪にも悪の事情がある」こともほんとうでしょう。

 ですが、そればかりではエンターテインメントは成り立たない。そのようなあらゆるモラルが相対化された文学的というか迷宮的な物語も魅力的ではありますが、いわゆる「王道」とはいえません。

 そこであの『鬼滅の刃』が革新的だったのは、「たとえどのような事情があろうと、無辜の人々を傷つけ、苦しめ、殺すことは悪である」と明確に示したことです。

 この清新な描写は、太平洋戦争以来の「価値相対化」の重苦しさを乗り越える意味がありました。これによって初めて勧善懲悪にして「王道」の物語が可能となったのです。

 もちろん、それ以前にも「王道」の少年マンガを志向した作品は大量にありました。しかし、それは数々のヒット作を生みながらも『幽★遊★白書』終盤のような重苦しい展開へたどり着いてしまうことがしばしばだった。

 これは「無条件の善」を信じ切ることができない日本のエンターテインメントの宿痾であるのかもしれません。それは一方できわめて成熟した精神を表わしているといえるかもしれませんが、どうにも「スカッとしない」ことも事実ではあります。

 ここら辺はとてもむずかしいところで、「何を善とし、悪とみなすか」、その根幹のところがぐらぐらしていることが「日本のフィクション作品」のひとつの特色といっても良いのではないかと思ったりします。

 この記事を読まれているあなたも一つ二つは記憶にあるのではないでしょうか。作品内でさいしょに示された「善」がじつは「悪」に過ぎないと告発され、善悪が逆転したり、混沌としたりする作品を。

 これもまた印象論に過ぎませんが、我が日本のエンターテインメント市場はやたらとそういう作品が多かったような気がします。正義のヒーローが悪い奴をやっつける、だけでは満足し切れないところがあるのですね。

 戦後80年近くそういう物語が大量に積み上げられ、その描写が成熟してきた結果でしょう。前置きが長くなりましたが、こういう環境では、もはや「悪としての体制」、「民衆を苦しめる政治権力」を打倒しておしまい、という物語に説得力がなくなることも必然ではあるのだと思います。

 極度に左派的な発想では体制とか権力をヒーローとして描くことは危険であり、また問題であるということになるのでしょうが、じっさいのところ、いまとなってはもはや権力はただ腐敗しているとか、無能に過ぎないからやっつければ良いのだという次元の描写ではだれも納得しなくなっているに違いありません。

 こういった傾向は散々「右傾化」として叩かれましたし、ほんとうにそういうところもあるのでしょうが、しかしそれだけではない。

 庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』などに見られるように、ただ無能だとか、有能だとかいったテンプレ的にわかりやすい描写では視聴者を説得できないところにまで来ているということなのだと考えられます。

 日本の観客の大半はいまやとくべつ左翼的でも右翼的でもないはずで、あまり偏った描写では大勢に受け入れられないのです。

 たとえば『コードギアス 反逆のルルーシュ』のように、たったひとり、世界を統べる帝国に立ち向かうといった構図であっても、そこには「それでは、帝国を打倒したあと、どうするか?」という難問が立ち上がってきます。悪い帝国をやっつけて自分が皇帝になりました、では終わらないわけです。

 まだまだクライマックスの物語が続きそうな『ONE PIECE』にしても、この先、ただ世界政府が悪の根源だからそれを倒したら万事解決、ということにはならないでしょう。

 その意味で、現代のヒーローが求められているものは「正義の信念」というより、「現実的かつ具体的な問題解決能力」であるのかもしれません。

 それがないと、たとえば『重戦機エルガイム』のように、悪を斃したはいいが責任は果たさずどこかへ去っていってしまう、というようなことになります。

 それにしても、「権力は悪であるから打倒しなければならない」といったレフトウィングの物語は、このところ、急速に色あせてきているようには思えます。

 そもそも、本来あるべき「反権力」とは、「もし権力が悪を犯したならたとえどれほど巨大なあいてだろうと抵抗する」ところに本質があるはずで、「権力は悪で権力者は腐敗しているに決まっているからやっつけなければならない」といった単純な固定観念ではなかったはずです。

 しかし、それがいつのまにか「政治権力=悪、反権力=善」という、あまりにも素朴かつ単純な図式に塗り替えられてしまった。

 たしかに、ぼくたち国民は権力の暴走を監視しなければならないことはたしかでしょう。ですが、政治的な権力だけが権力ではないし、体制側がいつも悪だとも限らない。

 あまりに「価値相対主義的」に「すべては見方しだいなのだ」といい切ってしまうことも問題だけれど、一方で単純な「勧善懲悪としての反権力思想」に寄り過ぎてしまうこともやはり大きな問題です。

 結局のところ、エンターテインメントとして十分に面白く、なおかつ一定のリアリティを備えた物語を描くためには、ただ権力を悪とし、あるいは善とし、反権力を明確な善、ないし絶対悪として描くだけでは足りない。

 エンターテインメントがきわめて高度なバランスを求められる時代が来ているといって良いでしょう。

 その意味で、ぼくが注目しているのが『PSYCHO-PASS』シリーズ。これは明確に「体制側」の物語ですが、その体制を成り立たせている「シビュラ・システム」にはあきらかに問題があることが描かれています。

 けれど、どんなに大きな問題があるとしても、相対的に見たとき、その「シビュラ・システム」を運用していく他ない状況でもあることが示されているわけです。

 この、いかにも袋小路的な、出口のない問題を解決するためには、「シビュラ・システム」よりもっと優れた問題解決策を提示するしかありません。つまり、政治的な意味での「対案」を示すことなくただ批判したり攻撃しているだけではダメなのです。

 そして、そのアンサーは、シリーズ最新作の映画に至ってようやく示されるかもしれない、その可能性を見せている。素晴らしい。日本のエンターテインメント・フィクションがどれほど高度なところまで来ているのか、明確に示す一作といえるかと。

 少なくとも、こういったレベルの作品を「政治権力は常に善/悪である」といった単純なイデオロギーで語ることはできない。

 これは、ある意味では、政治権力の問題を明確に直視し、その上で、なお革命を起こし体制を破壊して良しとするのではなく、その「改良」を試みつづけてゆくという意味での「保守本道の物語」といっても良いかもしれません。

 そういえば、佐々木俊尚さんも現代の政治に求められているものは「メンテナンスの哲学」であると語っていますね。

 政治権力は悪、それも絶対悪なのか?といったら、もちろんそんなはずはありません。それはときに腐敗し、ときに暴威と化すけれども、それでも人間社会に絶対に必要なものなのです。その事実を正確に見つめるほど、「日本のフィクション作品」はいま、成熟している。

 そのことをぼくは震えるほど感動的に思います。凄いね、現代のエンターテインメントは。

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