「誰かの萌えは誰かの萎え」では平和がもたらされない理由。
『ぼっち・ざ・ろっく!外伝 廣井きくりの深酒日記』を読んだ。
タイトルからわかるとおり、アニメ化されて話題をさらった『ぼっち・ざ・ろっく!』の番外編で、本編の裏側を描く内容となっている。
独立した一作として読んでも読ませるものがあるが、本編を読んだ上で味わうとさらに面白い。
Amazonでも非常に評価が高いし、わりとオススメの作品だ。
そうなのだが――ぼくはこの作品を読んでかなり困惑した。いったいどういうスタンスで物語と向き合えば良いのかわからないのだ。
きっと「酒クズ」のロック歌手を主人公にしたちょっと悪趣味ではあるもののライトでカジュアルなコメディ、そういうものなのだとは思う。
だが、じっさいに読んでみると、何というかあまりにも「シャレにならない」描写なのである。
主人公であるきくりの「酒クズ」っぷりが真に迫り過ぎていて、このままいくとアルコール依存症で破滅することが目に見えているように思えてしまう。
それを笑って見ていて良いのかどうなのかわりと微妙に思えて来るのだ。
「酒クズ」で常に酔っぱらっていないと陽気でいられないきくりの描写は、名作文学『星の王子さま』の一節を連想させる。
きくりも確実にこの悪循環に陥っている。彼女は酒を飲むことで憂さを忘れ「幸せスパイラル」の状態に入るのだが、その「幸せ」は何をどう見ても破綻と破滅へと急降下していく呪われた螺旋である。
また、酒を飲んでいない彼女は典型的な「陰キャ」でまともに話すこともできないのだが、その姿は本編の主人公「ぼっちゃん」が陰キャのまま、なけなしの勇気を出して活躍していく姿の陰画ともいえそうだ。
つまりはこの外伝は本編の少しリアルでシャレにならないバージョンといえ、本編を読んでいたときはげらげら笑っていたぼくもほんとうに笑って済ませて良いのか疑問に感じるわけである。
しかし、ネットの感想を見る限り、どうやらほとんどの読者はそのような読み方をしていないようで、ぼくはここから「ひとはフィクションに対しどのように向き合うべきか」というテーマを考えさせられる。
もっとも、その答えは最初から出ている。「どのように向き合っても自由」である。
べつに戦争映画を見て大笑いしても良いし、コメディマンガから哲学を読み取っても良い。あるべき「正しい」向き合い方などそもそも存在しない。好きにすれば良いのだ――その「感想」をひとりで抱え込んでいる限り。
もし、その「感想」をネットを含む世の中に発表すれば、それはその瞬間にひとつの「意見」となるわけであり、必然的に責任をともなう。当然である。
もちろん、発言の自由はある。どんな変わった見方もその人の自由であることが変わるわけではない。
だが、一方で何か「意見」を発表すれば、そこに賛否が集まることは避けられない。だから、たとえばぼくが「『きくりの深酒日記』はシャレになっていない。ぜんぜん笑えない」という感想をネットに投げたら、「そうは思わない」、「おまえは何もわかっていない」という人があらわれたりすることだろう。
ひとの考えかたがどこまでも多様である以上、この展開を避けることはできない。
ただ、そもそもこういった「好き/嫌い」に対し意見を述べるべきではないという立場もあるようだ。
たとえば、漫画家として、エッセイストとして活動するカレー沢薫さんのこのような記事がある。
そうだろうか。ほんとうに「否定的な」意見に対しては「馬糞を詰めてやる」ことこそが「ベストアンサー」なのだろうか。
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