リアル弱者男性ライターが読む『弱者男性1500万人の時代』。
弱者男性。
「弱者」と「男性」、一見するとなじみづらい、相反するとすら捉えられがちであるかもしれない概念をひとつにしたこの造語は、いま、ネットをうろつき回っているとしばしば見かけるようになった。
その時々で肯定的な文脈であることもあれば、否定的な使われ方をしていることもある。そのことそのものの是非は措くとしても、とかく、対立や議論の焦点となりがちな言葉であるのだ。
しかし、その一方、言葉ばかりが広く流通し、実態がどうなっているのかはあまり知られていない。その空隙を埋めるべく本日(正確にはつい数時間前に)出版されたのが、トイアンナ『弱者男性1500万人時代』である。
衝撃的なタイトルといって良いだろう。日本の男性の約四人に一人が弱者となるわけで、「そんなに弱者男性がいてたまるか」と感じる方もいるに違いない。
しかし、この数字には統計的な根拠がある。著者は現実にデータを駆使して「1500万人」という数を導き出しているのだ。
本書はとにかくいままでなかなか注目が集まらなかった「弱者男性」というカテゴリについて諸々のデータとインタビューを駆使して書かれていて、肯定的に見るにせよ否定的に捉えるにせよ、とにかく今後の研究のたたき台となる一冊といって良いように思える。
細かいところで議論の余地があることは当然だが、基本的には誠実に検討された良書といって良いのではないだろうか。
とはいえ、本編中にも記述があるのだが「弱者男性」という括りそのものが問題含みであることもまた論を待たない。なぜなら、ここでいう弱者男性とは、「何らかの意味で弱者性を持つ男性」の総称だからである。
つまり、年収が2000万円を超えていても、高身長でイケメンでも、何かしら弱者性にひっかかるところがあれば弱者としてカウントされるわけで、やはりあいまいな基準というしかない。
「弱者性を持っているから弱者男性」といえるなら「強者性を持っているから強者男性」といっても良いはずだが、そうなってはないのである。その理由を、著者は以下のように説明する。
つまりは、多くの弱者男性が抱える最大の問題は、その個々の弱者性「だけではなく」、かれらが弱者であることを「否認」されてしまう風潮にあるということだろう。
これは、そのまま、経済的貧困や難病や宗教二世やひきこもりや恋愛弱者(非モテ)といった問題はいままでそれぞれ異なる文脈で語られてきており議論の蓄積があるはずだ、それらそれぞれの歴史と固有性を持つ問題をあえて特定の性差の問題として統括する形で捉え直すことの意義はどこにあるのか、というクエスチョンに対するアンサーともなる。
貧困や虐待といった問題はたしかに切実で深刻だ。しかし、もしその当事者が適切なサポートを得られれば、時間はかかるにしろ解決へ向かうことも少なくないだろう。
だが、弱者男性の抱える問題は、ときにどんなに切実かつ深刻であっても「否認」される。そういう問題があるということそのものを認めてもらえないのである。
多くの人が「男は強いもの」というバイアスを持って弱者男性を見るため、たしかにそこにある問題が文字通り「見えない」ことになってしまう、その仕組みを本書は丁寧にひも解いている。
紛れもなく問題が実在していても、それが問題であるとみなされないこと、これ以上の問題はないのではないだろうか。弱者男性たちの弱者性は、多くに人にとって、ときには自分自身にとってさえ、あくまで「否認」するべきものと見られているわけである。
これはあきらかに社会正義に背く差別的な扱いであり、是正が望まれる。たとえば、貧困や過重労働といった問題は積極的に正されるべきだろう。ここまでは、正義の面から見ても包摂の面から見ても社会的に当然の意見であり、異論や反論が出ないわけではないにしても、ほぼ却下できるところだろう。
ただ、弱者男性問題がむずかしいのは、そこに実存の問題がかかわって来るところだ。弱者男性問題とは、男性たちの「生きづらさ」の問題である。だが、その個々の「生きづらさ」をどこまで社会問題として扱うことができるだろうか。
たとえばこれが経済的な意味での貧困の問題「だけ」であり、その貧困性が「否認」されることのみが問題であるというのなら、ある種、語りやすい。
経済的貧苦はいまなお自己責任として処理されてしまう傾向はあるとはいえ、個人の自己責任だけに帰して良い問題ではないことは(まともな考え方をすれば、だが)自明である。
経済や貧困を専門とする論者も大勢いて、論考もたくさんある。こういった問題は、長い時間はかかるかもしれないが、中長期的には解決の方向に向かうだろう、とぼくは考える。
しかし、「生きづらさ」とはただ経済的な状況だけでは語り切れない問題であるわけだ。ある弱者男性がいるとしよう。どこかの気まぐれな大富豪がぽんと一億円をプレゼントしてくれたら、かれらの問題はすべて解決して、とたんに「生きやすく」なるのだろうか。どうにも、そうは思えない。
どうしても弱者男性問題には実存の問題が関係してくることを避けられないのである。
だが、「モテない」といった個人的な問題を(「個人的なことは社会的なことである」といわれるとはいえ)、どこまで社会正義の問題として扱えるだろうか。おそらく、ありとあらゆる弱者男性問題が今後、解決に向かったとしても、最後まで愛の問題は残るだろう。
残酷なようだが、どんなにあらゆる差別と偏見が是正されて、公正な世の中が到来したとしても、モテない人間はモテないし、好かれない人間は好かれないし、愛されない人間は愛されないのだ。
それは「社会問題」というよりむしろ「世界問題」なのであって、人文知のなかでも文学や哲学の領域だといえる。
同じ人間として生まれても、ある人はだれからも好かれ、愛され、またある人は疎まれ、嫌われる、絶対の格差。
じつはそれが単に経済や容姿の問題であるならまだ良いのかもしれない。インターネットを見ればわかるように、あるいはそれこそVtuberあたりを見ていれば歴然としているように、どれほど同じように美男美女のアバターを用いていても「人気」は明瞭に分かれる。
いったいその差がどこにあるのか、性格なのか話し方なのか。だれにも真実はわからない。もし、純粋に人格を取り出した上で否定されてしまったなら、そこにはほんとうに一切の救いがない。これはその他のすべての問題が解決されたあとも残る人類最後の問題である。
だが、よりフェアに、リベラルに進展していく社会は、やがてその種の問題と直面せざるを得なくなるだろう。つまりはしんじつ社会問題がなくなるとき、残るのは個人問題なのであり、弱者男性問題はその個人問題と社会問題が入り組んでいるところに本質的な解決困難性があるということ。
ひとりのまずしい弱者男性として、ぼくはそう思う。
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