「私がエビデンス」問題を交通整理する。

 Twitterで「私はエビデンス問題」ともいうべき議論が発生しています。一部のフェミニスト(を自任する人々)が「私がエビデンス」を意味するエビの絵文字を名前に付けたことから始まった話題です。この問題について切り分けしていきたいと思います。

 エビデンスとは証拠、根拠、証言などを意味する言葉で、日本では主にアカデミズムの世界で使用されます。それでは、「私」はそのような意味での「エビデンス」になりえるのでしょうか?

 なることもある、というのがぼくの立場です。たとえば、「わたしはフェミニズムに救われた」という主張は「フェミニズムに救われる女性は皆無ではない」ということのエビデンスにはなります。

 ここまでは多くの人に納得してもらえる話でしょう。問題は「エビデンスにならない場合」を「なる」と主張している人がいるかどうかです。ぼくは、いると考えています。たとえば、このような意見です。

女性が、自分自身が語ることを、客観的証拠とする。男の恣意的な『証拠』の選択、虚構の『証拠』の押し付け。そこから、女性が自身について語ること、それが客観的エビデンスなのだとする権利を取り戻すこと。『女性が自身について語ることが、なにより、彼女自身の真実を表す言葉だ』

https://twitter.com/PAPS_jp/status/1006436740620382208

 「女性が、自分自身が語ることを、客観的証拠とする」。これはあきらかにおかしい。なので、批判を受けても当然ではあるかと思います。

 つまり、たとえば「フェミニズムに救われた私」は「フェミニズムに救われる人はいる」ことのエビデンスにはなります。しかし、それは「フェミニズムの理屈は正しい」、「女性は社会の被害者だ」といった論旨のエビデンスにはならないのです。例によって問題の切り分けが必要です。

 いまここに苦しんでいる「私」がいるとして、それが「あらゆること」のエビデンスにならないことは自明です。たとえば相対性理論が正しいことのエビデンスにはならないでしょう。あたりまえです。ただ、この世には苦しんでいる人がいるという事実のエビデンスにはなります。

 ある女性が社会に虐げられているとして、その人が「私がエビデンスだ」という理屈で「女性は社会に虐げられている」と証明することはできません。しかし、その「私」は、「社会に虐げられている女性は皆無ではない」ことの証明にはなるでしょう。そういうことです。

 したがって、「私がエビデンス」が「Twitterのフェミニズム言説で救われる人はいる」ことを意味しているなら、別に間違えていません。ただ、「皆無ではない」という以上のエビデンスにはなり得ないとは考えます。

 「私がエビデンス」の当初の意味とは、このようなものであったといいます。

「「Twitterで活動したところで何も変わらない」と主張する人に対しての「Twitterを見て価値観が変わる人もいる」というカウンターに、沢山の人が「私もTwitterにいるフェミニストのおかげで変われた、救われた!」とエビデンスを示していったのがきっかけです🍤」

https://togetter.com/li/1236509

 前述したように、これだけなら論理的に問題ないと思います。ただ、この「きっかけ」を「私自身の経験がevidence(根拠)なのだ、すなわち私も不当な女性差別や排除の被害者や証人だということを意味する」と解釈する人がいるのに対し、「その意味も勿論ある」と答えているところから問題が発生しています。これは意見が分かれるところでしょう。

 問題は「私自身の経験がevidence(根拠)なのだ」という部分でしょう。これは「私自身の経験」が「不当な女性差別や排除」一般のエビデンスなのだ、と読める。

 ただ、ここまでは「そういうふうにも読める」というだけのことであって、あまり過剰批判するべき性質のものでもないと思います。問題は、「私がエビデンス」という表現が、そういった当初の意味合いから離れて拡大解釈されていくことです。

 「私」の存在がエビデンスになる事例もあれば、ならない事例もある。当然のことです。後者の事例にまで「私」をエビデンスとして持ち込めば、非科学的、非論理的との誹りを免れないでしょう。「私」をエビデンスとして持ち出すなら、そういう解釈に対してストイックでなければならないはずです。

 前述の「女性が、自分自身が語ることを、客観的証拠とする」というツイートはその拡大解釈の一例です。批判する側は、こういった拡大解釈に絞って批判していくべきでしょう。

 今回は批判する側も勇み足的な意見が目立ちます。「私がエビデンス」を批判するなら、具体的に問題のあるツイートを持ち出して批判していくべきだと思います。わら人形論法での批判は厳につつしむ必要があります。

 はっきりいっておきますが、ぼくは「私がエビデンス」の意味を曲解してフェミニスト(を自任する人たち)を誹謗中傷する言説にはまったく与することができません。ツイフェミの方々の言説にはしばしば問題があるものがあると思いますが、それはそれ、これはこれ、です。

 「私」はある特定の言説の限定的なエビデンスにはなりえる。なので、「私」をある特定の言説限定のエビデンスとしてもちいることは批判できない。しかし、「私」はある思想、論説の普遍的な正しさを示すエビデンスにはなりえない。なので、そのような主張は批判できる。それだけのことなのです。

 今回の件については、「私はエビデンス」の正しさを主張する側はその言説が拡大解釈されている現実を見ようとせず、それを批判する側は逆に拡大解釈された意見だけしか見ようとしていないという問題があると思います。かくして議論はすれ違い、不毛に拡大していく。争いはむなしい。

 「私はエビデンス」の「当初の用途」は問題ない(批判できない)。ただ、その「拡大解釈」は問題がある(批判できる)。で、「拡大解釈」を行っている人は実在する。なので、そういう人だけを批判すれば良い。なのに、「当初の用途」を批判してしまうから問題が混乱するのです。

 ぼくはそう思うけれど、いかがでしょう。ご意見をいただければと思います。

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