ほんとうに映画は幼稚な観客向けになったのか? 過去を美化し現在を否定する言説の問題とは。

 こんな記事を読んだ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83706

 「「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647)の続編で、「映像作品の観客が幼稚になってきている。あるいは、幼稚な観客の感想がネットによって可視化され、それが作品にフィードバックされた結果、作品もまた説明過多の幼稚なものになって来ている」という趣旨である。

 一読、なるほど、と思わせられる。たしかに、テレビ番組などは「説明過多」の傾向があるし、そこから論理的に考えるとそういう結論が出て来る。いや、まったくいまどきの映像作品は幼稚かつ低俗で困ったものだ……。

 うん? ちょっと待て。ほんとうにそうだろうか? この記事、論旨そのものはきわめてロジカルだし、うっかりするとつい安直に追随して「昔は良かったなあ」とかいいたくなる誘惑に満ちているのだが、それだけにここは眉に唾をつけて読んでみることにしたい。

 そうすると、色々と怪しい個所が見えて来る。たとえばこの記事の結論は、こうだ。

「変えた、と言えば『シン・エヴァンゲリオン』がいい例ですよ。1995~96年のTVシリーズから25年間、ずっと“説明しない”でおなじみだった庵野秀明監督でしたが、『シン~』の終盤では、主要キャラクターが順番に登場して、心情をセリフで丁寧に説明してくれました。

こんな親切な『エヴァ』は初めてです。庵野さんは常に時代に寄り添う人だから、“今はこういうターンだ”と思って、あえてそうしたんじゃないでしょうか」(佐藤氏)

 一瞬、たしかにそうだな、庵野さん変わったな、と思いたくなるのだが、ほんとうにそういえるのか。

 庵野秀明監督作品、特に『エヴァ』が「説明しない」作品だったことは事実だ。しかし、それは物語の背景設定について説明しないということであって、登場人物が心情をセリフで説明する側面がないということではないだろう。

 むしろ、『エヴァ』で名ゼリフとされているものは直接的に心情をセリフで説明したものが少なくない。何しろ第一話から「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」である。

 これは主人公・碇シンジの「そこから逃げ出してしまいたいけれど、逃げてはいけないと思う気持ち」をダイレクトにセリフで説明しているわけで、とても『エヴァ』が「セリフで説明しない」スタイルだとはいえない。

 よくよく考えてみると『エヴァ』の特徴はその直接さにあるとすら思えて来るくらいだ。たとえば「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」のようなきわめて直接的なセリフは、どう考えても「登場人物の心情をセリフで説明」しているものだろう。

 そしてまた、物語の背景設定について説明を省いていることは『シン・エヴァ』でも同じである。あいかわらず「ゴルゴダ・オブジェクト」だの何だの、よくわからない専門用語が膨大に登場して観客を幻惑する。情報過多で一回見ただけでは把握し切れないスタイルは何も変わっていないのだ。

 たしかに『シン・エヴァ』にはきわめて「親切」な印象があるのだが、それは「登場人物が急に自分の心情をセリフで説明するようになったから」だとはいえないとぼくは考える。

 それでは、それまでの『エヴァ』と『シン・エヴァ』では何が違っているのか。それは、ひとつには登場人物のコミュニケーションが円滑に行われているということなのではないか。

 この記事は『シン・エヴァ』について語ることが趣旨ではないのでこの作品についてこれ以上は踏み込まないが、『シン・エヴァ』を例に出して「庵野監督はリテラシーが低い層にも通じるように心情をセリフで説明するようになって来ている」とはいえない。

 そもそも、前編で佐藤氏自身が語っている「口では相手のことを『嫌い』と言っているけど本当は好き、みたいな描写が、今は通じないんですよ」というのがほんとうなら、『シン・エヴァ』のアスカのシンジに対する態度はいまの観客には「通じない」はずではないか。

 『シン・エヴァ』におけるアスカの心情はそれこそセリフではほとんど説明されていない上に、愛情と嫌悪がないまぜになった非常に複雑なものである。もし佐藤氏のいうことが正しいのなら、それは「誤読」されて当然のはずなのだ。

 しかし、あの描写を見て「アスカはシンジのことが心から嫌いだから辛くあたっているんだな」といった感想を抱いた人はほとんどいないものと思われる。

 じっさい、ネットでは「アスカが何を考えているのかさっぱりわからなかった」といった感想は見かけない。つまりは、観客はアスカの「説明されない」複雑な心情を正確に把握することができているわけだ。

 ほんとうにいまはそういう描写が通じないのか、非常に疑わしいのではないか? ぼく個人の実感としては、むしろ現代のアニメは、特に京都アニメーションあたりの作品を代表格として、かつてでは考えられないくらい繊細な描写を行うようになって来ていると感じている。

 『リズと青い鳥』とか、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』とかね。『リズと青い鳥』なんて、相当にリテラシーが高くないと理解できない非常に高度な脚本だ。

 また、昔のアニメやドラマや映画がそれほど知的だったのかというと、「ぼくの実感は逆」なのである。昔、そうだな、たとえば80年代とか90年代くらいのフィクションは一般にもっと「幼稚」だったとぼくは思っている。

 もちろん、その頃の作品も色々あったので、それを乱暴に総括して幼稚だの低俗だのいうことはできないことは当然だけれど、少なくとも大衆向けにヒットした作品には知的な意味ではろくでもないものが少なくなかった。

 それが、この記事でいう「単純に楽しもうと思えば筋立てを追うだけで楽しめるし、深掘りしようと思えばどこまでもそうできるオープンワールド型の脚本」が一般化するに至って、知的に掘り下げる価値のあるものに変わってきたのだというふうにぼくは捉えている。

 まあ、それもしょせん印象論に過ぎないわけだが、個人的に90年代くらいにヒットしたアニメやドラマや映画は、いまよりずっと頭が悪いものが多かったと思っているのである。

 90年代のテレビドラマなんてほんとうにほんとうにひどかった。それが、この記事で取り上げられている『逃げるは恥だが役に立つ』みたいな「オープンワールド的」な作品にまで進歩したことは、どう考えても良いことだろう。なぜそれをネガティヴに捉えなければならないのかわからない。

 この記事には、こう書かれている。

かつて映像作品は、ある程度以上のリテラシーの観客に向けて作っていても、さほど問題にはならなかった。理解できない者の一部は勝手に背伸びをして理解に努めてくれたし、排除された客の声は可視化されなかったからだ。

 ウソだあ。いや、この説明そのものはウソではないかもしれないけれど、「ある程度以上のリテラシーの観客に向けて作っ」た作品は、やはり「ある程度以上のリテラシーの観客」にしか受け入れられず、特にヒットはしなかったと思う。

 昔のヒット作はやはりローリテラシー層向けに作られた、知的な意味ではたいしたことがない作品が主流だったのではないだろうか。少なくとも、かつてはハイリテラシー層だけに向けて作られた知的な作品がガンガンとヒットしていたなどという事実はない。

 というか、ハイリテラシー層だけに向けて作られた作品がハイリテラシー層にしかウケないのはあたりまえのことで、それはいまも昔も変わらないだろう。

 ただ、昔はローリテラシー層向けに作られた作品はハイリテラシー層にとってはウンザリするようなシロモノだったのが、いまはハイリテラシー層もローリテラシー層もそろって楽しめる「オープンワールド型」の作品が増えて来ている、そういうふうに感じる。

 そう、映像作品のストーリーは進歩してきているのだ。そういう意味で、この記事の「「みんなに優しい作品」こそが「良い作品」なのだ」という結論は間違えていない。

 ただ、それを「物語の作り方というものを根本的に変えねばならない。大変な時代がやってきた」とネガティヴに受け止めることには、強烈な違和感がある。

 いまという時代は大衆向けのカルチャーが全体的に進歩して来ているのだ。映像作品の物語もまた進歩すべきであることは必然ではないだろうか。また、じっさいにそれは進歩して来ているし、そのことは「良いこと」であるとぼくは考える。

 「昔は良かった。ローリテラシー層は無視して知的な作品を展開できた」というのは歴史の捏造ですらあるのではないか。

 たとえば、98年に世界的にヒットした『アルマゲドン』などは「頭の悪いヒット作」の代表格ではないか。それに比べて、たとえば2010年代に世界を席巻したマーベル映画は、遥かに知的な奥行きが深い。

 ただ特撮やアクションだけを追いかけていても楽しめる上に、いったん深掘りしようと思えばさまざまな社会的テーマをそこに見いだすことができるのである。そういう例は枚挙にいとまがない。

 あるいはあえて恣意的に作品を選び出して比較していると思われるだろうか。たしかにそうかもしれない。しかし、冷静になって思い出してみてほしい。昔のアニメやドラマや映画が、それほどまでに知的だっただろうか。

 ぼくにはあかほりさとる脚本のアニメや野島伸司脚本のドラマが知的に高度だったとは思えないし、映像作品というくくりを外して考えるなら、その頃はたとえば『少年ジャンプ』あたりで連載されていた作品も随分と単純だったのではないか。

 人には過去を美化し、いまを否定的に捉える傾向があるので、つい「昔は良かった」と思ってしまうが、ぼくにいわせればそれは幻想でしかないことが多々ある。結論は読者格氏にお任せするが、歳を取った人間に気持ちいい言説には惑わされないようにしなければならない。さもなければ老害へ真っ逆さまだ。

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