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脱毛症当事者として町山智浩さんの発言を批判、しない。

 例によってというべきか、町山智浩さんのいくつかのツイートが賛否を集めているようだ。

 先日、アカデミー賞の授賞式で暴力事件を起こし、問題視されているウィル・スミスとその夫人をからかうような内容の発言である。

クリス・ロックが『GIジェーン』じゃなくて「ジェイダの『ブラックパンサー2』が早く観たいよ」と言っていたら……。ウィル・スミスがビンタせずにマイクを掴んで「あのな、ジェイダがやるなら『GIジェーン』じゃなくて『ブラックパンサー』だろ!」と言い返していたら……。

https://twitter.com/TomoMachi/status/1508854681493139456

 ジェイダ・ピンケット・スミスを巡るこの問題についてはほとんどの人がご存知だろうからくわしくは説明しない。

 以下はジェイダを「からかった」クリス・ロックや町山氏の発言について書いていく。

 この件に関する町山氏の意見はこのようなものである。

https://miyearnzzlabo.com/archives/80196

 伝聞の形で語ってはいるが、つまりはウィル・スミスの「有害な男らしさ」を非難する内容だといって良いだろう。

 その一方で、クリス・ロックについてはまったく問題視していないように見える。

 さて、それではウィル・スミスの行動は愛する妻を思ってのものなのか、それとも「有害な男らしさ」に過ぎないのか?

 じつはぼくはこの点にそれほど興味がない。

 ほんとうはどちらだったのかわかっているのは本人だけだろうし、もしかしたら本人ですらよくわからないかもしれない。

 外野がああだこうだと邪推して適当に決めつけるべき性質の問題とは思えない。

 そしてまた、あえていうなら、その「動機」はたいした問題ではないだろう。

 家族のためを思って殴ったなら美談であり、男らしさを証明するために殴ったなら異常であるといった判断はばかげている。

 重要なのは公共の式典の場で暴力を振るったという事実であり、それはやはり批判されてしかるべきだと感じる。それだけといえば、それだけのことだ。

 それではクリス・ロックの「脱毛症」に関する「ジョーク」についてぼくたちはどう考えるべきなのだろうか?

 それは単にブラックなだけの「ユーモア」なのか。あるいは悪意ある「中傷」なのだろうか。

 この一件について、町山氏は「王」と「道化」という表現を用いて語っている。

アカデミー授賞式で司会のコメディアンがスターを茶化すのは1950年代ボブ・ホープからの伝統。さらに古今東西、道化が王侯貴族を無礼に茶化すのは伝統。道化はFOOL(愚者)と呼ばれ、社会の最底辺に置かれた「周縁」だったから。その構造は、芸人が社会的経済的中心になった現在は崩れている。
https://twitter.com/TomoMachi/status/1508865600717611009

 いかにも町山氏らしい素朴な二元論で、そんなに単純に割り切れる話ではないと感じる。

 しかし、まあ、「権力者」と「批判者」がいたら常に無条件で「批判者」の側に立つということなら、ある意味では一貫しているかもしれない。

 問題はその「権力者」に位置づけられているのが、「脱毛症」という難病をわずらい、いままさに闘病中のひとりの女性だということなのだが。

 それとは直接関係がないのだが、ぼく自身もまた「脱毛症」の当事者である。

 ほぼ全身の体毛が抜け落ちてからもう数年が経つ。そのあいだ、毎月、大学病院に通って治療を続けているが、改善の様子はないから、おそらく今後も完治はむずかしいだろう。

 はたしてぼくの脱毛症とジェイダの症状が医学的に見て同じ症例なのかどうか、医学の専門家ではないぼくには判断できない。

 ぼくの場合はいわゆる「円形脱毛症」の最も重度のものにあたるのだが(全体の1%程度がここまで悪化するらしい)、結果として脱毛が見られる病気はその他にもあるだろう。ひと口に「脱毛症」といっても色々なケースが考えられるわけだ。

 しかし、そのことはともかく、少なくとも、頭髪を含めた体毛が抜け落ちる病気をわずらっているという一点はジェイダとぼくは共通している、といって良いと思う。

 そして、この病気はおそらく大半の人が考えているよりは深刻な性質のものなのだ。

 この記事はそれについてなるべくたくさんの人に知っていただきたいという気持ちで書いている。長くなったが、この先の内容も読んでいただければ幸いである。

 ちなみに、タイトルにも書いた通り、この一件に関する町山氏の冗談というか軽口を、ことさらに批判するつもりは、ぼくにはない。

 おそらくいままでだったらもう少し怒りに燃えて批判していたかもしれないが、今回はもはやそういうつもりにすらなれない。

 われながら驚くほどなのだが、怒りや憎しみといったどす黒い感情はもちろん、嫌悪や軽蔑といった感情すらまったく感じない。

 おそらく、ぼくのなかで町山氏の態度に怒りや不信感を覚えるフェイズはすでに過ぎ去ってしまったということなのだろう。

 それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが、ぼくは今後も町山氏の姿勢は変わらないだろうと思っている。そういう人に対して、あまり執着することは良くないだろう。

 ただ、それでもひとりの脱毛症当事者として、やはり思うところはあるし、書くべきことは書いておかなければならないとも感じる。だから、書く。

 まず、ぼくがいいたいのは、広い意味での「脱毛症」は「ちょっとした軽い病気」などではないということである。それはときに人を死に追いやるほど重い病だと捉えるべきなのだ。

 もちろん、直接に死をもたらすわけでも、肉体的苦痛がともなうわけでもないし、人によって「べつに気にしない」ということもあるだろう。

 ぼく自身、特に重く気に留めていない。しかし、場合によってはそれはまさに致死の病となる。なぜなら、その容姿が激変するからだ。

 「なんだ、たったそれだけのことじゃないか」と思われるかもしれない。だが、その「たったそれだけのこと」で、激しく侮蔑されたり、罵倒されたり、攻撃されたりすることがありえるのがぼくたちの社会である。

 そのことはそれこそクリス・ロックや町山氏の発言を見ていればよくわかる。

 かれらの主観的には「ちょっと小粋なジョーク」が、じっさいには脱毛症当事者を死にまで追いつめることは十分にありえる。

 まさにそのものずばり、「顔の差別で人は死ぬ」と題された記事があるので、読んでみてほしい。

 これは脱毛症も含めた特異な容貌を意味する「ユニークフェイス」に関する記事だが、そのような独特の容姿のもち主がどのような目に遭うものなのか、具体的に記述されている。

 それはまさに「自殺」という最悪の事態にまで直結する問題なのだ。

 石井さんはもともと、フリージャーナリストでした。団体を立ち上げる前、自らの差別体験を描いた著書「顔面漂流記」を出版すると、反響は大きく、段ボール2箱分の手紙が届きました。いじめを受けた告白など壮絶な体験が記されており、自殺した子の親からも手紙が来ました。

 「普通の外見でも、いじめられる子がいる世の中で、顔が普通と違えば、格好のいじめの対象になる事実があります。顔の差別で人は死にます。この問題に本気で取り組もうと思い、団体を立ち上げました」

 ユニークフェイスは、当事者が悩みを語り合う交流会や、あざや傷を隠すメイク勉強会などを開催。講演やメディアを通し、顔への差別を巡る問題を訴えました。しかし、講演を聴いた男性から、「見た目の問題なんて、たいした問題ではない。大切なのは、顔よりも心だ」と言われることもありました。
 「私は男性に聞き返しました。では、顔半分にペンキをぬって街を歩けますか? もし娘さんの顔に大きなあざがあったら同じ言葉を言えますか? もし配偶者にあざがあったら結婚していましたか? と。自分事として考えた時、問題の深刻さがわかります」
 「あざはメイクで隠せるから、問題ないと言う人もいます。でも、セックスする時、どうするんですか? 友人と温泉旅行するときは? そこまで突っ込んで議論せず、『問題ない』とは言ってほしくありません。メイクで隠せたとしても、自己肯定感に大きくかかわる問題です」
 「ユニークフェイスの人たちは、外見が普通とは違うがゆえに、『学校でのいじめ』『就職差別』『恋愛・結婚できない』という三つの困難に直面します。自己肯定感も低く、三つすべてをクリアできる人は、なかなかいません」
https://withnews.jp/article/f0181123000qq000000000000000W06810101qq000018392A

 やはりこの問題は非常に重いものと見るべきなのではないだろうか。また、じっさい、ちょっと検索しただけでも、すぐに脱毛症が原因で自殺したと見られる人物の記事が発見できる。

https://s.japanese.joins.com/JArticle/61963

 「日本円形脱毛症コミュニケーション」の当事者による集団署名を見ても、「自殺を考えた」という内容が少なくない。

 この文章は脱毛症の苦しみを切々と訴えたものが多く、脱毛症にくわしくない人が見たらショックを受けることもあると思う。

中学1年生の頃から、脱毛が始まり、中学3年生からウィッグの生活です。ウィッグにかかった費用は1千万以上になります。自分の預貯金は使いきりました。母親しかいないので、これ以上の援助は受けられません。多いときは毎月5万円以上のローンを支払ってました。病院にも20年以上通ってますが、全治したことは一度もありません。でも、これ以上抜けないために、ステロイドを飲み続けています。何か、この病気のために制度があれば・・・・。困っている人はたくさんいるはずです。ぜひ、この対策を実現して欲しいと、一患者として切に願います。

私は十年以上脱毛症に苦しめられています。 周りの人達の支えで今までどうにか生きてこられましたが、一時はうつ病にかかり、自殺を考えたこともありました。 治療をしても一向に改善されず、ウィックを使用していますが、精神的にも金銭的にも非常に苦しいです。私のような苦しみを味わっている人は、たくさんいると思います。どうか私たちを助けてください。お願いします。

脱毛症は人生を破壊します 心を支配します 人生を破壊する病気は自殺に直結します 脱毛症は間接的に命に関わる病気です とても苦しいのです 好きなことややりたいことがあってもできなくなるのです 私は脱毛症になって笑う事がなくなりました 自殺も考えています 死ぬことになるかもしれません 道がない 周囲に理解してくれる人もいません 私が笑わないのも口数が少ないのも性格だと思っています脱毛症は外見だけでなく人格も壊すのです

理解してください脱毛症は深刻な問題です

確実な治療法の研究 開発をすすめて保険適用になるよう難病指定お願いします

http://www.jaac.info/main/modules/pico/index.php

 これが、当事者が訴える脱毛症の現実なのだ。

 この絶望的な訴えを前にしては、「見た目より中身が大事」といった言葉はまさしく「綺麗ごと」としか響かないだろう。

 もちろん、人間は見た目がすべてなどではない。「中身」もまた非常に重要である。しかし、たとえ当事者がそのように認識したとしても、社会は必ずしもそういう風には見てくれないのだ。

 このようなさまざまな問題を派生させる容姿の問題を、「容貌障害」と呼ぶ。

 これは「容貌障害」当事者を自任した藤井輝明氏が生み出した造語で、そこには血反吐を吐くような凄まじい想いが込められていると思われる。

 藤井氏は先日亡くなられたが、その人生は「バケモノ」とののしられたり、成績では十分に合格しているはずの就職先で落とされたりと、まさに過酷を究めるものだった。

 その上で彼は己の生涯を「容貌障害との闘い」と捉えたのである。

 この「容貌障害」という単語は、そのあまりの印象の強さからか、一般的には定着しなかったようだが、ぼくは考慮してみる価値のある言葉だと考えている。

 「ルッキズム」や「見た目問題」といったいくらか曖昧な言葉に比べ、あきらかに強烈に問題の本質を訴えかけてくるからだ。

 つまり、藤井氏のような当事者は、ただ単に見た目が人と違っているだけなのではなく、「容貌障害者」として捉えることができるということだ。

 藤井氏は、その人生において、公然と唾を吐きかけられたことが百回以上にもなると語っている。

 信じられるだろうか。「たかが見た目の問題」で、人はそこまで過酷な差別を受けるものなのである。

 ジェイダのケースを、藤井氏のそれと同一視することはできないだろう。

 また、どちらが重く、どちらが軽いなどといいかげんなことをいうつもりもない。

 ただ、このように容貌の問題が人にとっていかに重いものでありえるか、それがときとして自殺にすらつながることを認識した上で、初めに置いた町山氏の発言を見ると、やはり何ともいえない気持ちになるのである。

 怒りではない。嫌悪でもない。軽蔑ですらない。あえていうなら「哀しい」という言葉に近くなるだろう。

 昨年、右のほほにふくらみがあるという「見た目」を悩んだ中学生の少女が自殺するという事件が起こった。

 生徒は病気で右ほおに膨らみがあり、両親は「見た目が理由のいじめがあった」と主張していた。調査委は「いじめが影響を与えたが、直接的な因果関係はなかった」とした。

https://www.asahi.com/articles/ASP6Q71Z2P6QTIPE02C.html

 このようなさまざまな事実を踏まえた上で、もう一度、町山氏のツイートを見てみよう。

クリス・ロックが『GIジェーン』じゃなくて「ジェイダの『ブラックパンサー2』が早く観たいよ」と言っていたら……。ウィル・スミスがビンタせずにマイクを掴んで「あのな、ジェイダがやるなら『GIジェーン』じゃなくて『ブラックパンサー』だろ!」と言い返していたら……。

 ぼくは、やはりこれを「秀逸なジョーク」として受け流すことはできそうにない。

 繰り返すが、町山氏を徹底的に批判するほどの情熱、あるいは執着は、もうぼくにはない。だから、執拗に彼を論難するつもりはない。

 ただ、このツイートはあまりにも「哀しい」。

 本人はおそらく「権力者をからかう道化」のつもりなのかもしれない。

 しかし、その道化には「自分の舌先で人を死に追いやってもかまわない」というほどの覚悟があるのだろうか。とてもそうは思えない。

 また、先の少女を自殺に追い込んだという学校での「いじめ」にしても、いじめている本人たちのつもりでは「ちょっとしたジョーク」に過ぎなかったかもしれないではないか。

 だが、町山氏たちの発言をどう判断するかは、読者諸氏各人にお任せしよう。

 ぼくは書くべきことは書いた。あとはすべて、あなたが決定することである。

 だれを尊敬し、だれを軽蔑するか。

 だれを褒め称え、だれを唾棄するか。

 決めるのは、あなただ。

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