見出し画像

この瞬間を描くために。

ぷろおごnoteを読んだ。

きちんと読んでほしいけれど、一文だけ引用する。

ああ、この瞬間のために生きていた、という瞬間を得ることだけが、自らの生への実感と、「生きる意味」のようなものをあたえてくれるような気がする。

自分のためだけに時間を使うような、「この瞬間」。
そういう瞬間があってこそ、人生は輝くし、生きてゆくことの価値がうまれる。そのことには、強く、同意する。

でも――
「どうでもいいこと」だって確かに僕の人生の一部だし、むしろこの社会で"人間"(※サロン用語)をやっていくためには、「どうでもいいこと」をたくさんやらなくちゃいけない。
「この瞬間」を最大限甘美に味わうための助走として、「どうでもいいこと」は欠かせない。「どうでもいいこと」のかけらを集めて、濃縮して、そして「この瞬間」に役立てるのだ。

「どうでもいいこと」だって、人生を最大限ハッピーに送ることを考えたら、欠いてはいけないことだし、大事なのではないか?


……そう思うのは、僕が小説を書く人間だからかもしれない。

小説の書き方は、人によっていろいろだ。なんなら、同じ著者でもまるっきり違うつくり方をする時だってある。
でも、多くの場合で――これは「僕の中での」多くの場合かもしれない――物書きがある作品を『書けるな』と確信を得る瞬間がある。
それは、「書きたいシーン」だったり、「書きたいセリフ」だったりを思いついた瞬間だ。

たったひとつの場合もあるけれど、ふたつやみっつがセットのことが多い。
思いついた瞬間に、「これだけは、絶対に、世界に産み落としたい」と感じるような、セリフやシーン。そういうものが、ある。

たぶん、小説に限らないと思う。
物語を創り出そうと考えたことのある人は、きっと共感してくれるんじゃないかな。

そして、この先がたぶん、「形にできる人」と「妄想だけの人」の差だ。
「形にできる人」――すなわち、どんなに不格好だとしても、自分の頭の中の考えを"作品"の形で出力できる人のことだ――は、こうして思いついた「書きたいシーン」どうしを、無理やりにでもつなぐことができる。シーンとシーンの間の空白部分に思考を投げ込み、靄の中からそれらしい道を引っ張り上げることができる。

そこは「本当に書きたい」わけじゃあないけれど、それでも、「本当に書きたいセリフ」を書くために必要な部分。
小説を書く人が頭を悩ませているときは、たいてい、この部分で詰まっている。

なんでって――「本当に書きたい部分」っていうのは、だいたいするっと書けちゃうからね。


今日も僕は、「自分だけのために生きる瞬間」どうしの間を埋めるため、人間をやっている。大学の課題を真面目にこなし、Twitterで面白くもないニュースを読み、勉強になりそうだなと思った本を読んでいる。

この記事だってそうだ。
半分は「この考えを他の人に押し付けたい」という想いを、残り半分は「文章書くのめんどくさいな」という想いを込めたものだ。

そのどれもが、いつかの「この瞬間」に、きらめくことを信じて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?