ナウシカ読んで思ったこと

ナウシカを読み始めたのは一浪のときだった。それからたまに本屋に行っては一巻ずつ買って読み進めていき、二浪のとき最後の七巻まで読み終わった。それから、三浪になってから一回だけ読み直した。
ナウシカはとても心優しい少女で、善の象徴のような存在である。どんな人に対しても、どんな生き物に対しても慈悲深く、また勇気のある接し方をする。
ナウシカの世界を簡単に説明すると、舞台は高度な文明が滅んだあとの世界で、「腐海」という人間の住めない領域が徐々に広がるなか、残されたテクノロジーと領域の中で人々は生きていた。エンジンなどの機械を作る技術は残されていないため、残っているものを探してきて使うしかない。この世界ではエンジンは「採掘」するものなのである。「腐海」には蟲と呼ばれる多種多様な生物がいて、人間はこれを非常に恐れている。蟲たちを怒らせれば腐海の上空を飛んでいる飛行船はいとも簡単に落とされてしまうし、その蟲のなかでも特に神聖視される王蟲という蟲を怒らせれば都市を丸ごと潰されてしまう。そしてそこはまた新たな腐海となり、腐海の浸食は進む。
そんな世界でナウシカは二つの印象的な決断をしていた。一つは、蟲とともに死ぬ決断である。蟲を戦争に利用しようとした人間に絶望したナウシカは、人間たちのせいでこれから死ぬ王蟲たちとともに森になろうとした。結果としては王蟲の判断でナウシカは保護され生き残ることとなったが、この決断はいかにも心優しい少女っぽく、非常に納得のいくものだった。もう一つは、人類を滅ぼす決断である。今いる生命がすべて、世界を浄化し、つくりなおすための道具としてプログラムされたものだと悟ったナウシカは、その後の世界で新しく生態系を作り直すための施設を完全に破壊した。ナウシカたち人類も腐海の蟲たちもはいずれ滅ぶように設計されているため、この決断によってすべての生命が地球上からいつか消えることとなった。
この力強さ、この倫理の力強さをなんと表現したらいいだろう。ナウシカの倫理は人類の存続などのような「最高の善」なるものから導かれたものではない。そんな仕組みで生まれたものではないのだ。仮にこの瞬間、ナウシカが最も重視した何かがあったとしても、それは結果にすぎない。それを選んだ過程はもっと直観的で、本質的である。
人間の判断の正しさとは、そのような強さではないかと思う。この強さの追求こそが倫理であると。つまり、大義は幻想である。(ぜひナウシカ読んでみてほしい)

ずっと疑問に思っていることがある。少なくとも歴史に名前の残っているような学者がそうであるように、知的探求に一生を費やす人たちがいる。しかしなぜそんなことができるのだろうか。一つ疑問を解決したところで、新たなそしてもっと魅力的な疑問が生まれるのは常である。つまりすべての疑問が解決した状態にはなりえないし、まして、究極の問い(哲学なら存在とは何かとか)は絶対に残るだろう。それでもそれに一生を賭ける人がいることには一定の納得感がある。もちろんこのような話は学問に限ったことではないが、ここで考えたいのは「大義」についてである。大義は達成されないのだから、価値を感じる条件は大義とは別のところにあるはずだ。たとえば大義に近づいたとき価値を感じるのだろうか。しかしそれでは説明になっていないような気がするのである。

大学は入ってからが大事だとよく聞く。受験勉強はそのための準備にすぎないと。そのうち、就職が大事だと言うだろう。大学はそのための準備にすぎないと。そしてまた次々と「本当の価値」が登場するだろう。最後には人生の目標は家庭を持つことだとか、世界に名前を残すことだとか、今を幸せに生きることだとか、挙句の果てには人間は生まれてこない方が幸せだとか言い出すだろう。そんなものには納得がいかない。絶対に、人生の原理はそんな形では書けない。
なぜ浪人しているんだと聞かれても何も答えられない。これは何のための受験でもないし、そのものに価値があるのでもない。自分でもわかるのは、ただ不思議と、そうせざるを得ない理由がどこかにあったことだけである。
今は、この倫理の仕組みを考えることに一生を費やしてもいいと切実に思う。
受かってるといいな。





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