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ぼくを孤独から救ってくれた人のこと


寒くもなく暑くもない晴れの日。

あんなに過ごしやすい爽やかな日は、一年のうちに何回訪れるものなんだろうか。

2024年3月30日、片山さゆ里 最終公演の高円寺は、まさにそんな日だった。

心の痛みをひらすら音楽で叫ぶ片山さゆ里。

胸が締め付けられるような彼女の最期の演奏に、ぼくは幸せを噛み締めてた。



片山さゆ里と出逢ったのは一年前の五月、高尾山の山頂付近で。

対面したわけじゃない。耳で。

友人の音楽家と二人で山に登った折、ソイツが勧めてくれたアーティストが片山さゆ里だった。

ソイツは友人であると同時にぼくが一目置く表現者で、ソイツがなんともすごい表現者と出逢ったみたいに言うものだから、コイツが言うなら相当のもんだろうと、なんの疑いもなくイヤホンを借りて曲を拝聴。

タイトルは『バスジャック』。

なんて奇抜な表現をするのだろうと、先ずはその鋭さに驚いた。

「行きたいところへ行けるようにバスジャックをしよう」

彼女はそう歌っていた。

今思えばこのとき、私は知らず知らずのうちに彼女がジャックするバスに乗ってしまったんだろう。



氣付けば片山さゆ里を聴いている。

そんな日々を過ごすようになっていた。

ハマった意識は全くない。

確かに『バスジャック』にはやられたが、

耳障りのいい商業音楽のような普段から聴く曲なんかではない。



でも、

彼女の紡ぐ言葉に、なんだかわからないけど心が反応する。

そんな感じが続いていた。


「役割をくれよ」

「夜を乗り越えて私は孤独と手を繋ぐ」

「いつか社会のゴミになったとて私が私の歌を聴きたいから私の命は必要でしょ」

「ねぇ 私はさ 何者でもないことがわかった あぁ それでも 譲りたくないものがわかった」







自分を歌っていることは明らかだった。

彼女がどんな経験をしてきたか、

曲を聴けばなんとなくわかる。


ぼくは多分、片山さゆ里ほど人生に苦しんでない。

鬱のまま長い間過ごしたこともないし、

死ぬことを考えたのも、32年の人生でたった一度だけ。

大きな対人トラブルもなく、人にも恵まれて、なんとか今日まで生きてこれた。

でもなんでか、片山さゆ里の曲には共感せずにいられない。


人生で初めてだった。

「この人はおれのことをわかってくれる」って、

そう思える人に出逢えたの。

いつの間にか、心の真ん中あたりを片山さゆ里がつついてた。




これだけ人に恵まれた人生で口にするのもなんなのだけど、

ぼくは今まで人に心を開いたことがない。

部分的に開いている人は何人かいるけど、全部開いた人はいない。

友人にも恋人にも、「この人にならどの自分を見せても大丈夫」なんて思える人はいなかった。

今いるとしたら多分、片山さゆ里。


それくらい、彼女を聴くと、「おれもそうだった」って思い出せる。

曲を聴く限り、全然違う人生なのに。




小さい頃から、負ける方を選んで生きていた。

どうせ勝てないから。

どう扱われたって、どうイジられたって、それでその場が収まるのなら、それで。

感じるのが面倒だから、全部シャットアウト。

誰かを傷つけるのも嫌だし、誰に迷惑をかけるのも嫌。

自分に矢が向くのがいちばん楽。

いちばん損なポジションにいるのが楽。

そうやって生きてきた。

だから、大人になって苦労した。

何をやってもうまくいかない。漫画も、仕事も、人生も。

そりゃそうだ。今まで勝とうとしてこなかったんだから。




そんな半生に、片山さゆ里が刺さる、刺さる。

彼女を聴いてると思い出す。

受け流してきた日々が、本当はすごく辛かったこと。

平気だと思ってたことが、全然平気じゃなかったこと。

本当は嫌だったこと、誰にも言えなかったこと、

差し伸べてもらった手を、受け取ろうとしなかったこと。


昔は全然泣かないヒトだったけど、今はよく、昔を思い出しては泣いてる。

片山さゆ里のおかげで、余計に。



意味がないことだと思ってたから、そういうの。

自分の痛みを吐き出すこと。

だって、誰も見たくないでしょきっと。


世の中に溢れてる表現は

夢とか希望とか成功とか、

愛だとか恋だとかばっかりで、

みんなはそんなのに興味深々。



苦しんで苦しんで、それでも自分と向き合って、なんとか今を生きてます。

なんて、それだけの話、ただただ胸が痛い話、


そんなものでも、作っていいんだって、

教えてくれたのは、そう、

片山さゆ里。



同じ人がいるんだ。って、

独りじゃないんだ。って、

教えてもらった。


ぼくは、自分が独りじゃなかったことが嬉しくて、嬉しくて、

だから自分も、そういうところを伝えて、届けていいんだ。って。

思うようになった。



誰にも勝てなかったこと、

勝とうとしてこなかったこと、

絶望したこと、

絶望しても尚、続けなきゃいけなかったこと、

それでもなんとか生きてきたこと、



コンビニで洋菓子を買うとき、ついつい割れてるものを選んじゃうこと。

座ってから席を譲るんじゃなく、立ちっぱなしのまま結果的に譲っていることの方が多いこと。

意見が無いわけじゃなくて、誰かが傷つくことを考えて結局何も言えないこと。

エトセトラ。

エトセトラ。


今まで誰にも言ってこなかったこと、

わざわざ言うことでもないと思ってたこと、

これからは少しずつ、届けていこうと思います。

ぼくと同じく孤独を抱えて生きている人に、「ぼくも同じだよ」って言えるように。



ありがとう、片山さゆ里。

ぼくを孤独から救ってくれて。




もう、ステージ上の彼女は見られない。

まだ出逢って一年も経ってないのに、彼女は音楽を辞めてしまう。

音源からは感じられない声色、表情、息遣い、仕草、

片山さゆ里が全身全霊でぶつかってくるあの時間は、もう。


だから、昼夜二部制の片山さゆ里最終公演、ぼくは両方とも見に行った。

後悔しないように。

約90分間、全身全霊の彼女を浴びた。それも日に二度。

幸せだった。すごく。

幸せな内容の曲なんて一曲もないのに。

嬉しいんだよ。「同じだ」って感じれることが。

ずっと独りだと思ってたから。

嬉しいんだ。幸せなんだ。片山さゆ里を感じられることが。

孤独は孤独と繋がることができるんだ。




彼女は活動10年の節目に音楽をやめたけど、今後も創作や表現は何かしらのカタチでやっていくらしい。

よかった。また乗れる。進む方向はちょっと変わるのかもしれないけど、また見つけたら乗り込みたい。

もう彼女のことは知っているから、彼女の表現がどう変わっても、ずっと乗ってられる氣がしてる。

待ってる。彼女がまた、バスをジャックしてくれるのを。



#さゆゆ最終公演


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