今週のマイブーム 1/23-29 「言語とは差異である」

書くのが遅くなってしまったけど、先週はソシュールの「言語とは差異である」から色々と考えあぐねることが多かった。

知人と哲学>構造主義>ソシュールを理解したいという話をしたのを起点に気になって。

あるものがそれだけしかなければ単語は生まれない。それ以外のものがあるからこそ単語が生まれる。つまり言語とは差異である。

この考えをひっぱると、いくつか疑問が。


▪︎数字の1ってそれ以外のものがあるから生まれたの?それって2?0?
-たしか0は後発の概念だったはずなので2であるはずだが、そういう二項対立的なものなのか、それとも図と地の関係のものなのか。

▪︎それ以外のものがあるからこそ私が生まれる、とすると他性が揮発する。おそらくその他性を認識する際は私→私以外の一方的な差異の発見でよいはずだが、私と他性なる私以外のものとが互いに言語を有するためには「対話性ー完結できない世界をお互いに認めること、外にあるものや未知のものに対して開かれている世界に生きる」(『旧約聖書がわかる本 〈対話〉でひもとくその世界』より)が前提とされる。つまり、非言語的=未言語的了解が相互に必要ということなのか。(だとすると、言葉が通じる瞬間ってものすごい)

ここで月曜(1/30)に見た『heartstone』というアイスランドの映画が思い出される。思春期のヒリヒリとどうしようもないあの焦燥が苦しいほどに描かれていたが、あの言語化しないからこその表現の深み。
なんか全然まとまってないから、おそらく次週も同じブームになりそうだけど
・差異の未言語的発生
・対話性
・非言語であるということ

が気になるなあ。

あと、それとは関係ないけど、ゆる言語学ラジオ #4の「英語は神視点、日本語は自視点」の話がめちゃくちゃおもしろくて。アメリカにいるときに自然とIが立ちのぼってきて、自分が何なのか自分で決める、人はみんなちがう、が当たり前に湧き上がる感じは言語仕様にあるのかなとか思った。あと、見えている色が違うのでは…?の絶望はもしかして母語が日本語だからこそ深刻なのでは、とか。英語話者だったら、「んーまあ違うってこともあるっしょ」くらいにしか思わなさそう。ことばっておもしろいね。とは言え非言語的な感覚もヒリヒリさせてたい、あえて平たくしない大人になりたいと思う今日この頃。