28

西村佳哲さんの何らかの著作のなかで「やりたいことは28歳までに決まっていれば良いのだから焦る必要はない」というような内容があり、それを陽の射す蔦屋書店で読んだ高校生のあの日から28という年齢に他とは違う感情を抱いてきた。
そんな28が終わろうとしていて、高校生の私に今の私はどう映るのか。

社会人になってから、向き合いきれなかった試練から取り急ぎ逃げ、当時の環境に適合しようと必死になっていたら自分のしたいことを問う感性を失くし、いつの間にか自分が何を好きなのかも自覚できないような状態の年月が続いた。体調を崩し、手術もした。漫然とした暗がりの中で、ごく身近な交友でたしかな信頼を築き合ってきた、ただそのひとつのメモリを起点に、私は自分自身のものさしを取り戻しながら今日の元気な自分がいる。この数年を簡単に振り返るとこれに終始する。

やりたいことを自分の仕事(これは職業と言う意味に留まらず広義で)としてやれていますか、とまっすぐ問われると、まっすぐ答えるとノーになる。今は。ただ、ノーと言えるようになったことは今の私にとっては大きい。思うようにいかない、というより何かを自分の意思で思うことすら苦しい谷間にいた。今はノーと感じることができるし、それを言うことができる。

やりたいことが決まっていますか、と問われると、婉曲的イエスかな。まだ自信はない。だから高校生の私には失望されてしまうのかもしれないけど、最近思うのは、やりたいことは何か、という問いは、あなたにとってたしかなことは何か、ということではないだろうか。それに対しては私は答えることができるようになった。

互いの感覚をそのまま発露できる大切なひとがいる。片手に収まるほどだけれど、彼らとの関係性はそれぞれにオーダーメイドで、遠くに住んでいたり、連絡を頻繁にとるわけでもなかったりする。性別を超えたり、一緒に暮らしたり離れてみたり。でもそれで薄れることのない、たしかな私たちである。彼らがそれぞれの場所で今日もごはんを食べたり仕事をしたり好きなひとたちと楽しい時間を過ごしていることや時に苦しんで生きていること、それを感じられることや、話を聞いて私も話す時間、受け取って受け取られて、それが光であり風であり土だった。
鶏か卵か、互いの感覚をそのまま発露できる他者がいること、まっすぐな感覚をもてること、は少なくとも私が生きるためには必要で、それは時にむずかしく、切実でたしかなことだ。

ただ、「やりたいことが決まっていますか」という問いに対して上をまっすぐ答えることはできなくて、それは、今の私はそれらを守る術をもたないから。方法を身につける必要がある。ただ感謝し今あるものを愛するだけでなく、構造を知り、特性を知り、技術を知らなければならない。フロムの『愛するということ』、読んだ大学生のころはあたりまえ体操だな〜と思って気に入らなかったけど(こういう天邪鬼なところ生簀かないから反省したいな)、愛するためには技術が必要である、ということには経験をもって頷ける20代を過ごしたように、今なら思う。失ったものもあり、失ったひともいる。

最近ひとにかけていただいた言葉で「(それが自分の生き方と)違うと感じるならたしかめにいかなければ」というのが胸中でこだまする。「たしかめる」という言葉が私の中で志向性の響きをもって、新しい風が吹いて、すきになった。確認とはたしかなものを求め手を伸ばし足を運ぶということ。やりたいこと、〜たいこと、の言葉とも呼応する。
たしかなことを志向してたしかめる29にしたい。遠出しよう。