女体、エクスペリメント

Twitterで見た漫画で、嘘、Togetterで見た漫画、フェミニズム的な漫画の中で、男が「性交したいな、彼女欲しいな」と言っているのを「これは女のモノ化です!よくない!」と言っていた。が、私は「モノだったら既に持ってきてるわ!」と思った。漫画や小説の中の女キャラクターのような語尾で、「持ってきてるわ!」と思った。「性交したいな、彼女欲しいな」と思っても、その夢が叶わないのは、女はモノでないと男が認識しているからか、重くて持ってくるのが難儀だからだ。そもそも「モノ化」とはなんだろうか。難しそうだから考えるのを止めようと思う。せっかくの休日に難しそうなことを考えてはいけない。難しそうなことについては、それを考えることで益を得る人が適切にするべきだと私は思う。本当は思っていないけれど「私は思う」と書くことが出来るし、堂々と句点も打てる。

個人の行動や発言に対し「これだから男は」とか「女は」というのに違和感がある。私は好きな色を問われれば「玉虫色です」と答えたい気持ちを持ち続けているくらい、あらゆることを曖昧に、濁しておくのが良いと思う性質であり、よく「決断力のない男」と言われる自分を夢想する。そもそも好きな色を問われる機会も、決断力のなさを責められる機会もないのだ。私は日常における発言の少なさによって中立性を保っている。まるでゴールド免許のペーパードライバーのように。

私の認知の中には「困った女」も「困った男」も「善い人っぽい女」も「善い人っぽい男」もいる。「困った女、男」については仕事上の指示を聞かない、自己主張が無駄に強い、などで、「善い人っぽい女、男」は仕事上の指示をスムーズに受けてくれる、無駄な主張をしない、であり、どちらもプライベートでの関わりはない。なので「っぽい」である。つまり、いずれにせよ男女それぞれいろんな人がいる。厄介な人も善い人っぽい人も男女問わず個人個人の違いなので、「男は~」「女は~」とひとまとめに断定することは出来ない。しかし出来たほうがすっきりして良いかもしれない、とは思う。


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